第1章 夏の始まり ④
それから夏実は堕落した日々に戻る。毎日昼まで寝て、昼ごはんを食べるとまた昼寝をして、目が覚めるとマンガを読んだりしながら怠惰に過ごす。やっぱり私はこういう引きこもりの生活が好きなんだと思う。自分の殻にこもることで私は心の平穏を守れるのだ。
ある時、夏実は祖母にお使いを頼まれる。
「ちょっとスーパーに買ってきて欲しいものがあるんだけれど……」と秋恵はいう。
「腰を痛めてしまってね。スーパーまで歩いたり、荷物を持つのがつらくて……」
「良いよ、おばあちゃん」と夏実は即答する。祖母の家に転がり込みながら、何の役にも立っていないことに罪悪感のある夏実には、お使いを断るような理由は何もなかった。
夏実はTシャツにショートパンツにサンダルという相変わらずラフな格好で出かける。ポケットには鍵と財布だけが入っていて、それ以外には何も持たない。
外に出るとしばらく曲がりくねった小径を進んでいき、幹線道路沿いに出る。その道はこの町で唯一の大通りであり、たくさんの自動車や人々の往来を見ることができる。
その幹線道路沿いをしばらく東に進み、そして北に曲がり始めてすぐのところに目的のスーパーがある。
そのスーパーで祖母に頼まれた食材や日用品を言われるがままにカゴに入れていく。
夏実はついでにアイスクリームをいくつかカゴに入れる。お手伝いしている訳だから、これくらいはバチが当たらないだろう。と夏実は心の中で言い訳をする。
夏実は買い物を入れたレジ袋を持って、スーパーからの帰り道を歩いていく。買い物の重さがレジ袋の持ち手を介して夏実の手に食い込んでいく。
重いなぁ。おばあちゃんはいつもこの重さを持ち運んでいるのか、すごいなぁ。
夏実はそう思って、何度も手のポジションを変えながら、幹線道路沿いを歩いていく。
やがて夏実は道の向こう側から一人の女の子が歩いてくることに気づく。その女の子は大きな犬を散歩させている。夏実は同世代の子が近づいて来ることに緊張する。
彼女は外出用のとてもおしゃれな格好をしていて、部屋着のまま出てきた自分との違いに夏実は恥ずかしくなる。
そして夏実は自尊感情の低さを改めて思い知らされる。同世代と自分を比べてダメなところばかりである自分に気づき、夏実はいたたまれない気持ちになる。
それが自分の悪癖だと夏実は思う。でも、自分ではどうすることもできない。
しかし彼女が近づくにつれて、夏実には別の感情が呼び覚まされることになる。
懐かしい。私は彼女のことをどこかで見たことがある。そして私はそこになぜかとても安心と親近感を覚える。なぜだろう。
それは同世代を相手にした夏実があまり抱かない種類の感情だった。そして彼女の顔がはっきりと分かるくらいに近づいた時、夏実は思い出す。
私は彼女のことを知っている。
それもただ知っているという訳ではない。とてもよく知っているのだ。
彼女の名前は佐藤涼子。とても綺麗な見た目の彼女は、小学生の時の同級生だった。
涼子が夏実の存在に気づく。途端に彼女は笑顔になって、手を振りながら夏実のもとに近づいてくる。夏実の緊張が高まっていく。涼子は明るい声で夏実に話しかける。
「久しぶり! 夏実だよね! ここで会えるなんてびっくりしたよ」
「うん……」と言ったきり、夏実は何だか恥ずかしくて目を伏せてしまう。
夏実は昔から人見知りだった。それは大人になっても変わらないままだ。
私は人見知りを克服することなく、大人になってしまった。その劣等感が、友達を前にして、夏実を何も言えなくさせてしまう。
それでも涼子は昔と変わらないまま、笑顔で夏実に話しかける。
「卒業してから八年くらい経つけど、あの頃とお互いに変わらないね。夏実と再会できてとっても嬉しい!」
「あ、ありがとう……」夏実は照れ臭くて、余計に涼子を直視できなくなってしまう。
「ねぇ、この後、ちょっとだけ時間ある?」と涼子が遠慮がちに尋ねる。
「うん。あるよ」と夏実は俯きがちに答える。
「夏実さえ良ければ、どこかでゆっくりしていかない?」
「……いいの? 涼子さえ良ければ私もそうしたい」夏実は頑張って思いを言葉にする。
二人がいる幹線道路に直交する、細い車道沿いを進んでいくと、小さな河川敷に出る。そこが涼子と犬の散歩コースになっている。涼子は歩きながらそう教えてくれる。
やがて、二人は河川敷に並んで座っている。気がつくと夏実は小学生の自分に戻って、涼子と昔のように仲良く話せるようになっている。
二人の出会いは小学校一年生だった。名前のあいうえお順に並べられた教室で、二人は席が前後で並んでいた。
入学当初は夏実の人見知りもあって、それほど仲が良くなった訳ではなかった。時折、話すことがある、席が隣同士の人。当初はお互いにそんな認識だったと思う。
少なくとも当時の夏実にとって、涼子はさほど特別な人ではなかった。
二人が仲良くなったのは小学校二年生に上がってからだった。
クラス替えがあって同級生たちが入れ替わる中、二人は同じクラスの隣同士になった。しかも今回は左右で隣同士、席がお互いにくっついていた。
よく知らない人たちが周りに多くて人見知りする中、知っている同士の二人はすぐに仲良くなった。
「夏実ちゃん一緒になれたね! これからまたよろしくね! 同じクラスに夏実がいてホッとしたよ」
「こちらこそ涼子ちゃんがいてくれてよかった。人見知りで心臓がバクバクになっていたから、涼子ちゃんが話しかけてくれてホッとした」
「そう? 私が役に立てたのかな? だったら良かった! 私も嬉しい」
「ありがとう、涼子ちゃん」
夏実がそう感謝を口にした時、涼子の頬は喜びと照れで赤く染まった。
しかしそのことに夏実は気づいていなかった。自分の言葉が相手に喜びを与えるなんて思いもしなかったからだ。夏実は人見知りな自分のことで精一杯になっていた。
それから二人は毎日たくさん話すようになった。帰り道も一緒になったり、放課後にはお互いの家に行って遊ぶこともたくさんあった。
後から振り返るとこの頃が一番、二人で一緒にいる時間が多かったのかもしれない。
当時の夏実と涼子はお互いの家が近くにあった。二人とも同じマンションに住んでいたのだ。そのことを夏実は小学二年生に上がるまで知らなかった。
涼子にそれを打ち明けた時、涼子は夏実に言った。
「私は知っていたよ。夏実が同じマンションに住んでいること。だから本当は今みたいにずっと仲良くなりたかったんだ。夏実ってとても可愛いしね」
そう言われて、夏実は申し訳ないのと同時にとても嬉しかった。
私なんかとずっと友達になりたかったなんて。
当時の私にとっては生まれて以来、いちばん嬉しかった言葉かもしれない。
それくらい、夏実には涼子の言葉が素敵に思えた。
小学三年生になると二人は別々のクラスになった。それでも二人はお互いが一番の親友と言えるくらい仲が良かった。少なくとも夏実はそう思っていた。
二人は毎日のように待ち合わせて一緒に下校した。二人にはそれぞれ別に友達が何人かいたけれど、それでも下校は必ず一緒にすることにしていた。むしろクラスが別れたからこそ、二人の時間を確保するためにそういう決め事を作ったのだった。
小学四年生になっても二人は別々のクラスのままだった。だから進級しても相変わらず二人は一緒に下校することにしていた。
時には、そのままお互いの家に遊びにいくこともあった。そして同じマンションということもあって、遅い時間まで一緒に遊んでいることも多かった。
小学五年生になると二人はまた同じクラスになった。二人は再会を喜び合った。
「ようやく同じクラスになれたね! 私、すっごく嬉しいよ!」
涼子は心から嬉しそうにそう言った。夏実は素直に自分の気持ちを伝える涼子のことが眩しかった。そして夏実の方こそ、涼子と一緒にいられることが嬉しかったのだ。
でも、不器用な夏実はその気持ちをうまく伝えることが出来なかった。
「あ、ありがとう……」
夏実には口ごもってそう言うことしかできなかった。それでも涼子は愛想のない夏実を何も言わずに笑顔で受け入れてくれた。そのことが夏実にはとてもありがたかった。
二人はまた同じクラスになったことで前よりもいっそう仲良くなった。それからは卒業までずっと同じクラスだった。
楽しい毎日を送るためには相手のことが欠かせない。
二人は無意識のうちにそう思うようになっていた。少なくとも夏実はそう思っていた。涼子もたぶん自分と同じだったと思う。
今になってあの頃のことを思い返すと夏実はそう思う。
そしてそのことを河川敷に並んで座りながら、涼子に打ち明ける。
「実は小学生の頃、涼子がいたから毎日が楽しかったんだ。もしも涼子がいなかったら、私は真っ暗な子ども時代を送ることになっていたかもしれない」
夏実はそのことを口にした途端に、恥ずかしくなって俯いてしまう。でも涼子が言う。
「私こそだよ。私こそ夏実がいたから子どもの頃はずっと楽しかったんだ。夏実がいないと私はいろいろと駄目になっていたと思う。その証拠に、中学生になると私は……」
涼子はそこで何も言わなくなってしまう。何も言わなくていいと夏実は思う。
「何も言わなくていいよ。言いたくないことをわざわざ言う必要はない。涼子が話したいことだけ私に話してくれたらそれでいいよ」
「ありがとう。夏実はとっても優しいね。夏実に会えて本当に良かった!」
涼子は眩しい笑顔でそう言ってくれる。そんな気持ちを素直に言えてしまう涼子が私はとても好きなんだ。夏実はそう確信する。
「また会おうね」
夏実は気がつくとそう口にしている。そしていたたまれない気持ちになる。
そんなことを言って、涼子を困らせたらどうするんだ。本当は、今の私に幻滅してもう会いたくないと思っているかもしれないのに。
でも涼子は言ってくれる。
「じゃあ、明日またここで会おうか」
「いいの? 私なんかとまたすぐに会ってくれて」
「もちろん。当たり前だよ。私たち、親友だもん。今度はもっといっぱい話そうね」
涼子にそう言われて、夏実の表情には笑顔がこぼれる。
そして二人はそれぞれの帰路に着く。
涼子と別れた帰り道、夏実には涼子とのいろいろな思い出が去来する。
夏実は二人が初めて一緒にお泊まりした時を思い出す。小学二年生の夏だった。
放課後、涼子の家に遊びに行った時、涼子が夏実を誘ってくれた。
「このまま一緒にお泊まりしない?」
それは夏実にとってワクワクするような提案だった。
「いいの? 私がお泊まりしちゃっても」
「もちろん! 夏実だから一緒にお泊まりして欲しいんだよ」
涼子は笑顔で言う。その笑顔が夏実には眩しく見える。
「ありがとう」と夏実が言う。涼子の顔は少し赤くなる。
そうして二人は生まれて初めてお泊まりをすることになる。二人は夜遅くまでいろんなことをおしゃべりする。
今まで相手が知らなかったことをお互いに打ち明ける。その中には、他の人に話すには恥ずかしいこともたくさんある。それを相手にはあえて打ち明ける。
そして二人はよりいっそう仲を深める。それは夏実にとって素敵な思い出になる。
その時、自分が涼子に何を話したのかは覚えていない。たぶん今にして思えばとりとめのないことだったと思う。でも当時の自分にとっては重大なことだった。
そして涼子も心に秘めた大切なことを教えてくれる。例えば、普段は言えない家族への愛なんかを。
それからもお泊まりは何度もした。その一つ一つが夏実の大切な思い出になった。
お泊まりで具体的にどんなことをしていたか。それを夏実は思い出すことが出来ない。あまりにもささやかなことばかりだからだ。
でもいくつかの情景は鮮やかに思い出せる。そしてその時の色彩に満ちた感情も、夏実の心に深く刻み込まれている。
布団の中で一緒にくっつき合った時のドキドキと嬉しさ。
くだらない話で盛り上がった時の涼子の楽しそうな笑顔。
夜更かしをしてお互いの顔にできたクマを笑い合ったこと。
涼子がふとした時に一瞬だけ見せた涙。その理由は今でも分からない。
小学生の頃の二人は本当に親友同士だったと思う。でもいずれ二人にはお別れが来る。中学校への進学を機に、涼子の一家は遠くに引っ越しをすることになった。
最初はいつでも連絡を取り合おうと約束した。でもやがて二人は連絡を取らなくなった。遠距離で連絡を取り続けるには、お互いにあまりにも色んなものを抱えすぎた。簡単には言葉に出来ない物事が二人の中には生まれすぎた。
そのことをお互いに手紙の行間で感じ合っていた。二人は相手を大切に思っているからこそ、相手の心の中に踏み込めなくなっていく。
そうして手紙のやり取りは頻度が減っていき、やがて中学二年生に上がる春に、夏実が出した短い手紙を最後に、涼子からの返信は来なくなった。
それも仕方がないと夏実は思った。涼子はきっとそれどころではない。
そして、自分の状況をうまく言葉にできるほど、二人は頭の中をきちんと整理できていなかった。二人は思春期の真っただ中で、頭も心もいつも混乱の渦中にあった。
そして相手のことを大切に思うからこそ、自分の混乱を相手に悟られたくない、相手を心配させたくないという思いがあった。
だからこそ、二人は何も言葉にすることが出来なくなったのだ。
でも再会した涼子は言ってくれた。私たちは親友だと。
その言葉を私に伝えるのに、どれほどの勇気が必要だったのだろう。
もしかしたら私は「手紙を返さなかったのに虫のいいやつだ」と涼子のことを幻滅したかもしれない。その可能性だって涼子は考えたはずだ。
でも涼子はそんな迷いをおくびにも出さずに、自分の気持ちを伝えてくれた。それが私にはどれほど嬉しかったことか。
涼子は間違いなく私にとって大切な人だ。
もしも今後、どれほど涼子が私のことを幻滅したとしても、どれほど私が涼子を眩しく思ったとしても、その気持ちは変わらない。
夏実はそう思いながら、「ただいま」と言って祖母の家の扉を開けた。




