第9章 悲しみを乗り越えて ②
翌朝、夏実は目を覚ます。隣では涼子が寝息を立てて眠っている。
ぼんやりとして周囲を見渡す。どうやら涼子と抱き合ったまま眠ってしまったらしい。昨日は早い時間に眠ってしまったので、起きたのはまだ早朝だった。
夏実は起き上がると朝日を浴びたくなって外に出る。心の中にある憂鬱や恐怖を消してしまいたかった。
玄関の外に出ると伸びをする。深呼吸をすると少しだけ気持ちが楽になる。
散歩をしたくなった夏実は家の前の道に出る。
ふと振り返るとレターボックスが半開きになっている。扉を閉めようとした夏実は異様な匂いがすることに気づく。
レターボックスの中に異物が入っている。夏実はそう直感する。
恐る恐る扉を開けると、そこにはカエルの死骸が入っている。
夏実は思わず目を背ける。しかし夏実はカエルの死骸に紙がついていることに気づく。夏実は思い切ってカエルの死骸を取り出す。その足には釘で紙が留めてある。
紙にはこう書かれている。
「お前たちは何も見ていない」
全身に鳥肌が立った夏実は、カエルの死骸を落としてしまう。
これはきっと、白装束の集団が送ってきたものだ。火柱を見たことを黙っていなければならない。そういうメッセージなのだと夏実は思う。
田んぼのあぜ道に移動して、カエルの死骸をそっと埋める。紙は外してポケットの中に入れる。そして夏実は家に帰る。
部屋では涼子がまだ寝ている。綺麗な寝顔を見ると、さっきの出来事を話して良いものかどうか迷いが出る。
でも夏実は思い切って涼子を起こす。そして持ち帰った紙を見せながらレターボックスにカエルの死骸が入っていたことを説明する。
涼子は呆然としながら話を聞いている。しかし、次第にその表情は歪んでくる。
「わたし、怖い」そう言って涼子は震え出す。
そんな涼子を夏実は抱きしめる。夏実の体も震えている。
しばらくして二人は外に出る。ずっと家の中にいても恐怖で息が詰まるだけだからだ。
二人は田んぼに挟まれた道路を歩いていく。夏の青空が広がっている。
涼子が大きく深呼吸をする。それに合わせて夏実も深呼吸をする。
太陽の光は暑いけれど、体の中の空気が入れ替わっていくような感覚がある。
二人は手を繋いで歩いていく。涼子の手を繋いでいると夏実はほっと安心する。全身の緊張と恐怖がほどけていくような感覚になる。
夏実は良かったと思う。そこで涼子が口にする。
「良かった、夏実がいてくれて。夏実がいなかったら私は恐怖に押しつぶされていたよ」
夏実は少しだけ顔を赤らめながら「私も」と口にする。
「わたしも涼子がいてくれて本当に良かった。ごめんね、涼子を巻き込んで」
「そんなことを言わないで。二人で一緒に乗り越えて行こう」
二人はお互いの顔を見合う。そして思わず笑顔がこぼれる。
しかし、すぐに二人の顔はこわばることになる。
どこからともなく白装束の集団が現れる。
顔をマスクで覆っていて、伺うことはできない。彼らは二人を囲んで道を塞ぐ。
そして無言で、二人を威圧するように見つめている。涼子が声を震わせながら言う。
「あの、何でしょうか? わたしたち、何かしましたか?」
すると正面の男が口を開く。
「お前たちは見ただろう。火柱が天に昇っていくところを」
そして別の女が言う。
「あれは本来、誰にも見られてはいけないものなのだ。お前たちが見るべきではなかったものだ」
次に別の男が口を開く。
「お前たちはあの夜の出来事を口外してはならない。もし誰かに口外すればお前たちの命は保証しない」
二人は恐怖のあまり震えたまま何も言うことができない。夏実は感情が昂りすぎて尿を漏らしてしまう。お互いを握り合う手が強くなっている。
「わたしたちはどうすれば良いの?」
涼子は震えた声で必死に言葉を搾り出す。
「何もするな。ただそれだけだ」
正面の男はそう答える。そして白装束の集団は二人を田んぼの際に追い詰める。
気づいた時には、二人は田んぼの泥の中に落とされている。
泥まみれになって唖然とする二人を置いて、白装束の集団はいつの間にか消えている。
二人はお互いの顔を見て、涙を流している。
家に帰ると風呂場に直行して、服の上からシャワーを浴びる。しばらくして服を脱ぎ、全身を石鹸で洗うと二人は風呂場をあとにする。
そして夏実のTシャツとショートパンツを涼子に貸すと、二人は夏実の部屋に移動して思いきり抱きしめ合う。「怖かったね」と涙を流しながら。
それから二人は手を取り合って、疲れたように眠りにつく。
その日の夜、二人は夏実の部屋で過ごしている。
涼子は夏実の服を着ている。夏実は畳の上で体を投げ出し、のんびりと座っている。
そんな夏実を、三角座りで涼子は見つめている。夏実は思う。
涼子と一緒にいると不思議な安心感がある。今朝あんなに怖いことがあったのに、私は今とても穏やかな気持ちだ。
夏実は涼子の存在に涙が出そうになる。でもその涙を何とか押し留める。
涼子には余計な心配をかけたくない。
そこで夏実は涼子の視線に気がつく。涼子は微動だにせずじっと夏実のことを見つめている。次第に夏実は落ち着かなくなってくる。
どうしたのと訊こうとしたところで、涼子は突然立ち上がる。
そして着ている服を脱ぎ始める。
「何をしているの?」と夏実は訊く。
涼子はその質問には答えずに、「夏実も服を脱いで」と言う。
夏実は訳も分からぬままに、服を脱いで裸になる。涼子も裸になっている。
「これで良い?」と夏実は訊く。
涼子は何も答えない。ただひたすら夏実のことを見つめている。
涼子は何を考えているのだろう。夏実にはその表情がまったく読めない。こんなことは今までなかったのに。
すると涼子はいきなり夏実を抱きしめる。
夏実はいきなりの出来事とひんやりとした涼子の肌に驚いて「ひゃっ」と声を上げる。涼子は言う。
「お願い、何も言わずにこのままでいて」
涼子の体は小刻みに震えている。夏実は「分かった」と言って涼子の体を抱きしめる。そこに言葉はいらないと夏実は思う。
涼子の肌の滑らかさを感じる。そこから涼子の色んな感情が伝わってくる。それは何も恐怖や混乱だけじゃない。
そこには私への愛情と強い意志がある。まるでこう言っているかのように。
あなたと一つになりたい。
夏実は改めて涼子の体を力強く抱きしめる。涼子が夏実を抱きしめる力も強くなる。
そこで涼子は夏実に言う。
「ありがとう。こんな私を受け入れてくれて」
夏実はそれに応えるように言う。
「こちらこそありがとう。私のそばにいてくれて」
やがて二人の目からは涙がこぼれる。
二人は力強く抱き合いながら、お互いを想って泣いている。
次第に涼子の呼吸は荒くなる。涼子の全身が上気しているのを夏実は感じる。
それに呼応するかのように、夏実の心臓の鼓動も早くなる。涼子の存在に胸が高まっているのだと夏実は理解する。
ああ、そうだったのか。私は涼子のことが好きだったんだ。
涼子と一つになりたいと願う程に。
そして二人は口付けをする。唇の敏感な感覚が、全身に快感として伝わっていく。
二人はお互いの舌を絡める。最初は遠慮がちに、次第に情熱的に。
二人はそうして一つの存在になろうとする。お互いの境界線が溶け合っていくような、不思議な一体感がある。
やがて二人はお互いの体を確かめ合う。相手の脇をなで、腰に手を滑らせ、そして性器に手を伸ばす。お互いに快感の息がもれる。
愛する人とお互いの裸に触れ合うことが、こんなにも悦びになるなんて。
夏実は今までその悦びを知らなかった。
私は恋愛感情を持たない人間なんかじゃない。今まで本当の意味で愛する人に出会わなかっただけなのだ。
夏実は涙を流しながら、悲しみと表裏一体のこの上ない幸せを感じる。涼子も同じ幸せを感じていることが手に取るように分かる。
涼子も涙を流しながら、幸せそうな笑顔で夏実を見つめている。
二人はそのまま裸で抱き合って夜を過ごす。二人だけの夜はまだまだ長い。
そして、二人は朝を迎える。夏実は目が覚めると隣に涼子がいることを確認する。涼子は気持ち良さそうに寝息を立てている。
夏実は思わず笑顔になる。眠っている涼子の頬に手を滑らせる。
そこで涼子は目を覚ます。夏実は「おはよう」と小さな声で呼びかける。
涼子は起き上がって伸びをした後、目を細めて笑顔で「おはよう」と返事をする。
そして涼子は夏実を抱きしめる。
「夏実のことが大好き!」と涼子は言う。
夏実も涼子を抱きしめて、「私も涼子のことが大好きだよ」と言う。
それから二人はそっと口付けをする。二人はクスクスと笑い合う。
「私たちって変だね」と涼子が笑顔で言う。
「そうだね」と言って夏実も笑顔になる。
「ねぇ、私たちこれからどうしようか?」と涼子が訊く。
「そうだねぇ」と夏実は言う。「このままじゃいけないことは分かっているんだけど、どうすれば良いのだろう」
「いっそのこと、二人で遠くまで行っちゃおうか」と涼子が笑顔で言う。
「誰の目にも届かない、誰にも傷つけられないどこか遠くへ」
「それは魅力的だね」と夏実が言う。「できれば、颯汰も一緒に連れて行きたいけれど」
そこで二人は颯汰のことを考えて無言になる。本当は颯汰と一緒にみんなで幸せになりたかった。颯汰は今あの世で幸せになれたのだろうか。
夏実の目に涙が浮かぶ。その涙を拭って夏実は涼子のことを見つめる。涼子の目にも涙が浮かんでいる。夏実は涼子と同じ悲しみを共有していることを実感する。
でも今は悲しんでばかりじゃいられない。私たちは同じ悲しみだけではなく、同じ幸せをこうして共有しているのだから。夏実は笑顔を作り直して言う。
「私たち、これからどこに行こうか?」
涼子も笑顔を取り戻して言う。「うんと南の国に行こう!」
二人はお互いを見て笑い合う。そしてもう一度、お互いを強く抱きしめ合う。
「少なくともこれだけは確かに言えることは」と涼子が言う。「これからも夏実とずっと一緒にいたいということ」
「そうだね」と夏実は言う。「一人きりだと苦しいことでも、二人なら乗り越えられる気がするよ」
それは夏実の本心からの言葉だった。「私たちは強くならないといけない。でも、涼子がいれば強くなれる気がするんだ」
「私も夏実がいれば強くなれる気がするよ」涼子が言う。「そしてもう一つ、大事なこと。夏実、二十歳の誕生日おめでとう。夏実も今日から立派な大人だね」
そして、二人は旅に出る。今の身軽な二人はどこへでも行くことができる。
二人はやがて街から姿を消す。それぞれの家族にだけ別れを告げて。火柱のことは誰にも言わずに。




