第8章 未来への足跡 ②
齋藤秀一は目を覚ました。秀一の朝は目覚めがいい。目覚まし時計のアラームの一回目だけで起き上がると、すぐに顔を洗って着替えを済ます。
秀一が一階に降りると、佐藤夫婦がカフェの仕込みをしている。
「おはようございます」と秀一は礼儀正しく挨拶をする。
佐藤涼子の母親である玲香は、それに優しい笑顔で応える。
「おはよう。今日もゆっくりしていってね」
秀一はいつも朝ごはんにカフェのモーニングセットを食べる。それはトーストとゆで卵とコーヒーのシンプルなセットだった。
秀一はこのカフェのコーヒーの香りが気に入っていた。コーヒーを味わいながら、朝のひと時をゆっくりと過ごす。
しばらくすると涼子が一階に降りてくる。
「あ、おはようございます!」と涼子は秀一に声をかける。
「おはよう。今日も元気だね」と秀一は応える。
「ありがとうございます!」と涼子は明るく返事をする。
涼子はカフェの制服姿ではなくおしゃれな格好をしていた。今日はカフェを手伝う訳ではないようだ。手には小さなバッグを持っている。
「今日はどこかに出かけるの?」と秀一は尋ねる。
「はい、今日は親友のお家に遊びに行ってきます。とっても楽しみです!」と涼子は笑顔で応える。やっぱり冬と比べて笑顔が自然になったと秀一は感じる。
「行ってらっしゃい」と秀一は呼びかける。
「行ってきます!」そう言って涼子は元気よく出かけていく。
秀一は午前をいつもカフェでゆっくりと過ごしている。そこで考え事をしながら恵子を探すための英気を養うのだった。
しかし、探すと言っても手当たり次第に聞いて回ることしかできない。それが秀一にはもどかしかった。
「そういえばこの町に来ていつも何をしているの?」と玲香がコーヒーを飲んでいる秀一に訊く。「やっぱり医学のお勉強をしに来たの?」
「それもそうなんですが、実はこの町で人探しをしているんです」と秀一は言う。
そこで秀一は灯台下暗しだったことに思い至る。
そういえばこの夫婦には恵子のことを聞いたことがなかったのだ。
「僕の伯母が行方不明になっているんです」と秀一は正直に打ち明ける。「この町に来たことまでは分かっているんですが、そこから消息を絶っているんです」
そう言って秀一は恵子からの手紙の一部を見せる。
「今日は福本町という町にやって来ました」
手紙にはそう書かれていた。だから秀一はこの町にやって来たのだった。
でも手紙にそう書いてあるからと言って、恵子がこの町にいるとは限らない。もうこの町にはいないかもしれない。どこか別の町に行ったのかもしれない。
それでも「最初で最後の手紙」だと言って足跡を残していた以上、秀一には恵子がまだこの町にいるという直感があった。
「伯母さんはどんな人なの? 写真とかはあるの?」と玲香は尋ねる。
「はい、あります」そう言って秀一は伯母の写真を見せる。
その写真は秀一が恵子と旅行に出かけた時の記念写真だった。山の展望台からの綺麗な街並みを背景に、他の観光客に撮ってもらったものだった。
玲香は表情を変えずにその写真を見つめている。
しばらくして玲香は写真を持って店の奥に入っていく。そして玲香は夫の幹夫を連れて出てくる。玲香は写真を見せながら幹夫に話しかける。
「ねぇ、あなた。この写真の方って……」
「あぁ! 一時期、店によく来てくれていた人だ」と幹夫は言う。「懐かしい顔だなぁ」
二人の反応に秀一は驚いて尋ねる。
「伯母さんここに来たことがあるんですか?」
「この前の冬によく来てくれたよ。それこそ毎朝のようにモーニングを食べに来ていた」
秀一は思わぬところで恵子の足跡と邂逅することになって驚く。秀一は言う。
「詳しくお話を聞いても良いですか?」
齋藤恵子は毎朝、カフェでモーニングセットを頼むのが習慣になっていた。恵子はそれを毎朝、美味しそうに食べていた。
恵子はいつも小学生くらいの少女と一緒にカフェを訪れた。
少女のことを恵子は「大切な友人の子」だと語った。少女の名前は三浦彩香と言った。
そして恵子は佐藤夫婦に言った。
「行方不明になったこの子の母親を探しに来たんです」
少女の母親もまたある人を探していた。それは少女の母親の親友に当たる人だった。
「私の大切な人を見つけるために、一時的に子供を預かってくれませんか」
母親は恵子にそう言ったという。母親の名前は三浦明里と言った。そして彼女は子供を恵子に預けた後、行方不明となった。
三浦明里という女性は、無責任に子供を投げ出すような人ではない。
恵子はそう信じていた。だからこそ彼女は、明里の娘である彩香を連れてはるばる彼女を探しに来たのだった。
彼女にはきっと何か大きな事情がある。もしかしたら大変なことに巻き込まれているのかもしれない。恵子は佐藤夫婦にそう語った。
三浦彩香はとても綺麗な目をした子だと玲香は思った。だとすれば母親である三浦明里もきっと素敵な人なのだろう。
彩香は母親のことを信頼していた。それは生まれてからの時間をずっと一緒に過ごして来たからこその信頼だった。
「お母さんは勝手にいなくなったりしない」少女は力強くそう語った。
三浦明里は彩香に十分すぎるくらいの愛情を注いできた。いつも彩香の味方になった。
曲がったことが嫌いな彩香は、よく学校のクラスメイトや先生とトラブルを起こした。そんな時はいつも明里が学校に出向き、娘の代わりにその正しさを丁寧に説明した。それが彩香には嬉しかった。
つらいことがあって彩香が泣いている時には、何も言わずにそばに寄り添ってくれた。明里がいるといつでも安心できる。彩香にとって明里はそのような存在になっていた。
そんな明里が「福本町に行く」と言って、彩香を置いて姿を消した。そこに事情がない訳がなかった。だから恵子は明里を探してこの町にやって来た。
でも恵子はその先の足跡が掴めないまま、彩香とこの町に逗留し続けていた。
「そう言えば時々、変わった服装の人たちを見かけるけれど」
ある時、恵子は玲香にそう言った。実際、町を歩いていると時々、詰襟の白装束の集団と遭遇することがあった。
「あぁ、あの人たちね。私はあまり関わらないようにしているけれど」と玲香は言った。「山奥の方に新興宗教の本部があるのよ。その人たちが時々、町に降りてくるの。うちのカフェにお客さんとして来ることもある。その時は愛想よく接しているけどね」
そこで彩香は言った。
「お母さんも神様を信じている。よくキョウカイに行く」
「お母さんってキリスト教徒なの?」と玲香が訊いた。
「違うよ。聖福教会だよ」と彩香が言った。「お母さんがよく言っていた。みんながいい人たちだから自分もニュウシンしたって」
「それで恵子さんは教団本部を訪ねたんでしょうか?」と秀一は訊く。
「そうなんです。彩香ちゃんを連れて出かけて行きました。それ以来うちには来なくなったから、てっきり解決したんだと思っていた。まさか行方不明になっていたなんて」玲香は悲しそうに言う。
「教団本部に行ってそのまま姿を消したんだとしたら、ちょっときな臭いな」幹夫は静かに口を挟む。
「そうですね。用心するに越したことはないですね」秀一は言う。「正面から突破しようとすると何が起きるか分からないから、何か方法を考えないと」
「もしかして教団本部に乗り込もうとしているの?」玲香が心配そうに言う。
「はい。伯母さんを見つけ出すためにやって来たんですから」秀一は答える。
「危険じゃないかな? こう言うのは警察に任せた方がいいと思うの」玲香が言う。
「警察は信用していません。伯母さんの失踪をただの蒸発だと思っていて、今まで動いてくれなかったんですから。それに、俺自身が伯母さんを見つけ出してこそ、意味があると思うんです」秀一は言う。
「そうなの……分かった。でも無理は絶対にしないでね。少しでも危ないと思ったらすぐに逃げること。その上で、もし教団の制服を来た人がお客さんに来たら、あなたにも声をかけましょうか?」玲香が言う。
「ありがとうございます玲香さん。そうですね、そこからのアプローチが良さそうです。玲香さんたちには心配をかけないように、十分に気をつけますね」秀一は答える。
教団の信者にアプローチをするその日に備えて、秀一は「聖福教会」の基礎知識を調べておくことにした。
秀一は教会のホームページを見てみたが、特に怪しい雰囲気はなかった。
教義が載せてあったが、世界三大宗教の教義を混ぜ合わせたものであり、矮小な自己という存在からの解放と、大なる世界との一体化を目指すというものだった。
哲学に興味を持っている秀一から見ると、比較的まともなものに思えた。
ホームページに映っている人や建物も、どちらかというと洗練されたイメージだった。
宗教のパッケージ自体に問題はなさそうに秀一には思えた。
しかし組織の外観は往々にしてその実態とは乖離するものだ。秀一の社会人経験はそう語っていた。
この宗教団体の実態は、中にいる人間じゃないと分からないだろうと秀一は思った。
それにもし問題のある組織だったとしても、ほとんどの信者は真面目に信仰していて、一部の信者にだけ問題がある可能性だってある。
いずれにせよ、とにかくまずは教団の信者と接触して、話を聞くところから始めよう。秀一はそう考えていた。




