第8章 未来への足跡 ①
齋藤秀一は、伯母の行方を探し始めた。齋藤恵子は、秀一にとって母親の姉だった。
恵子は正義感が強く、義理を重んじる人だった。親族たちが暑苦しさを感じる程に。
例えば、恵子の伯父はアルコール依存症だった。彼は交通事故で妻と娘を失った悲しみから酒に溺れていた。そして荒んだ生活を送るようになっていた。最初は皆が彼のことをかわいそうだと思っていた。しかし彼の荒廃ぶりに皆が気味の悪さを感じるようになった。そして親族たちは彼のことを次第に忌避するようになった。
しかし、恵子だけは彼のことを見捨てなかった。自分が小さい頃から彼にはたくさんの世話になった。その思いが恵子を動かしていた。恵子は孤独や喪失感に苦しむ叔父のことを支えた。結局、彼は体を壊して早死にしてしまったけれど、最期まで恵子だけが見捨てなかった。親族たちが伯父との関わりを断つ中、恵子だけが彼の元に通い続けた。
秀一はそんな恵子の姿を見ていた。親族たちが恵子のことを嫌っている一方、彼は恵子のことが好きだった。むしろ恵子以外の家族が小悪人にすら見えた。落ちぶれた人たちに対して親族たちが冷たい言動をとる中、恵子だけがそんな人たちに手を差し伸べた。
秀一も恵子に似て、潔癖な性格だった。彼は公正や誠実を重んじた。そして彼にとっては何よりも共感と思いやりが大切だった。それが彼の生き方だった。
周囲との軋轢を避けるために、表立ってその潔癖さを見せることは控えていたけれど、伯母の恵子にはいつでも自分が味方であることを示していた。
「伯母さんは間違っていない。いつでも応援しているからね」それが彼の口癖だった。
それに対して恵子は「ありがとう。私はこのまま進んでいくよ」とひそかに応えた。
秀一にとってはいつしか恵子の姿が生きる指針となっていた。
秀一は医学部の学生だった。九月十一日生まれの三十歳で、とある国立大学の経済学部を卒業後、サラリーマンとして働き始めた。総合商社に入社すると貿易の仕事に関わっていた。仕事は忙しく、海外を飛び回ることも多かった。
でも、次第に仕事への興味は薄れていった。仕事をしている中で日々、違和感を抱いていた。これが本当に自分のしたかった仕事なのだろうか。これが本当に自分の望んでいた生き方なのだろうか。その中で自分の仕事以上に興味を惹かれるものが生まれていた。
秀一は高校の卒業旅行で震災に巻き込まれた。三月で高校卒業を控えた彼は、友人たちと一緒に海沿いの街を訪れていた。
秀一は牛タンを初めとしてたくさんの美味しいものを食べた。彼にとっては仲間たちとの楽しい卒業旅行で終わるはずだった。
しかし、最終日の午後二時四十六分、彼らを巨大な地震が襲った。
最初は何が起きたのか分からなかった。いきなり世界が大きく揺れた。それしか彼には分からなかった。気がつくと目の前に広がる世界は崩壊していた。家やビルは倒壊して、あたりは瓦礫の山となっていた。
ラジオのニュースで情報が明らかになるにつれて、秀一を大きな恐怖が襲った。この世のものではない出来事が今まさに現実で起こっている。秀一は信じることができなかった。自分の目の前にある世界が現実感を欠いていた。透明なフィルムを隔てた向こう側に世界があるような感覚だった。
そして秀一は苦しむ被災者たちを目にした。家族と引き離された人たち。仕事や財産を失った人たち。心身の健康を害された人たち。秀一は目の前の現実に圧倒された。まるで世界に潰されるんじゃないかという恐怖に駆られた。
秀一の心にはその情景がずっと残っていた。そして彼にはいつしかある思いが生まれていた。彼らのような災害で困っている人たちを助けることができたら。
しかし、秀一には難関大学の経済学部という針路がすでに決まっていた。それを覆してまで、自分の進む道を変える勇気は出なかった。
秀一は経済学部を卒業後、商社マンとして忙しく過ごした。多忙を言い訳にして必死に忘れようとしていたが、秀一は勇気を出せなかった自分にずっと負い目を感じていた。俺は自分の目にした世界から、そして自分の中に芽生えた思いから逃げている。彼はあの日以来、心の中でずっとそう感じてきた。
そんなある日、秀一は恵子と話すことがあった。商社の多忙な仕事に疲弊していた秀一は何気なく恵子に愚痴をこぼした。
「最近よく思うんだよな。俺は何をやっているんだろうって。忙しなく仕事をしてばかりいて、自分の本当の価値観からはどんどん遠ざかっているような感覚があるんだよ」
「自分の本当の価値観ってどんなものなんだい?」
「恥ずかしくて誰にも言えなかったけど、本当は俺って医者になりたかったんだよ。針路が決まって高校を卒業する直前に、俺は震災を経験していて。その時に俺は思ったんだ。被災者の命を助けるような仕事がしたいって。でも俺はそんな自分の声に従うことができなかった。その勇気がなかったんだ」
「その思いは今でもあるのかい?」
「分からない。俺はその思いをずっと見ないようにしてきたから、もはや自分の中にどういう形で存在しているのかも分からないんだ。けれど、もしかしたら俺は心のどこかで、その夢をずっと見続けているのかもしれない。俺は医者として人々に貢献するという夢をずっと抱いているのかもしれない。もう二十五歳になっているのに」
「今からじゃもう遅いのかい? 秀一はまだ若いと思うけれど」
「どうなんだろう? 俺はまだ遅くないのかな? 今からでも目指していいのかな? 俺は情けないことにそれをずっと悩んでいるんだ。お前が本当にやりたいことは別にあるだろうって自分に問いかけるけれど、それでも俺はその勇気が出なかった。せっかく良い大学を卒業して、有名商社にも入ることができて、ここまで順風満帆な人生を送っているのに、お前はそれを今から投げ出せるのかって」
「自分が本当はどうするべきなのか? その答えはもう出ているんじゃないかい?」
「そうかもしれない。俺はもう自分の心を決めているのかもしれない。たぶんあとは勇気の問題なんだと思う。このままじゃ俺は一生、後悔するかもしれない。そう考えると今がその時なのかもしれない。自分の心に従って進んでいく最後のチャンスなのかもしれない」
「後悔のない人生を送ることがいちばん大切なことだ」
「そうだよね。それがいちばん大切なことだよね。よし、決めた。俺はこれから医学部を目指す。せっかくの仕事を失うことへの怖さがあるし、本当に医学部に合格できるのかも分からない。それでも俺は自分の人生を取り戻すことにするよ」
そうして秀一は、自分が本当にやりたい道へと進むことにした。災害医療で患者の命を救うこと。それが秀一が抱いてきた本当の心の声だった。
秀一は医学部を目指すために会社を辞めた。大学受験には一年半を費やした。
まずは最新の教科書を買って、それを読み直すところから始めた。そして各教科の問題集を一冊ずつ買うと、その演習をひたすら繰り返した。それから過去問を繰り返した。
秀一はシンプルに受験勉強をこなすことを考えた。たくさんの参考書に手を出さない。これと決めてしまえば、あとはそれだけを繰り返す。
高校生の頃は受験勉強なんて苦痛でしかなかったけれど、社会人になって学び直すと、意外と楽しいことに気がついた。
絶対に合格しなければというプレッシャーはあったけれど、それ以上に秀一は受験勉強を楽しんでいた。勉強って面白いんだな。秀一はそう思っていた。
医学部に合格した時には、秀一は二十七歳になっていた。秀一は医学に熱中した。
秀一にとって勉強は苦ではなかった。むしろ面白くて仕方がなかった。ようやく自分が望んでいた人生を送ることができる。秀一はそのことが何よりも嬉しかった。
秀一は脇目も振らずに勉強した。生活のためにアルバイトはしていたけれど、サークルや遊びには興味を持てなかった。
同じく社会人を経験した仲間たちと一緒に、秀一は勉強にのめり込んだ。だから秀一の成績はいつもトップクラスだった。
二月、秀一は大学三年生の春休みを迎えた。実家に帰ると彼は、恵子が失踪したことを耳にした。秀一の母親は言った。
「やっぱり恵子はそういう人間だったんだよ。蒸発していなくなるような身勝手でどうしようもない人間なんだ。こうなることは当然の成り行きだったんだよ」
秀一はそれが許せなかった。自分が大好きな恵子おばさんがこうして身内にけなされることが許せなかった。秀一はそれを否定しようと思った。
そこで秀一は、春休みを利用して恵子を探すことにした。彼は恵子の足跡を辿ることにした。恵子は明らかにある場所を境にして足跡を消していた。
それは小林夏実の祖母が住んでいる田舎町だった。その町から家族や友人に手紙を出して、恵子は姿を消してしまった。
「もう二度と会えないかもしれないから、最初で最後の手紙を出すことにした」
手紙の冒頭にはそう書かれていた。その文面に秀一は不吉な予感を抱いた。
手紙には、自分が姿を消してしまうかもしれないこと、これまでの日々を感謝していること、これからも幸せに生きていってほしいこと、そんなことが書かれていた。
恵子の失踪を、家族はただの蒸発だと思っていたが、秀一にはそうではないという確信があった。
伯母さんは間違いなく、何か大変なことに巻き込まれている。
それは子供の頃から身近に接してきた秀一だからこそ抱いた、打ち消し難い直感だった。
秀一は伯母である恵子の足跡を辿って、一人その田舎町に出発した。おばさんのことは必ず見つけ出す。秀一は心の中でそう誓っていた。
秀一はまず拠点を作ることにした。あるカフェの二階が宿泊用に貸し出されていた。
そこは佐藤涼子の両親が営んでいるカフェだった。暗いウッド調の内装をした落ち着いた雰囲気のカフェだった。
秀一は毎朝カフェのコーヒーを飲み、恵子探しに出発した。秀一は時折、店を手伝っている涼子とも顔を合わせた。
そして「おはよう」と挨拶を交わすくらいの知り合いになった。
春休みを全て費やして、町での聞き込みを続けたが、恵子の足跡を見つけることは叶わなかった。むしろ彼女の足跡は不自然に消されている感触があった。それはあくまで秀一の感触に過ぎなかったけれど。
恵子のことを諦めきれない秀一は、夏休みに改めてここに来ることを決めた。伯母さんのことを必ず見つけ出すと誓って。
次の夏休みになり再訪した秀一はまず驚いた。涼子が別人のように明るくなっていた。もともと明るい子ではあったけれど、そこにはどこか作り物のような不自然さがあった。
再会した涼子は、冬とはまるで雰囲気が違っていた。その明るさは自然なものとして、涼子にとても馴染んでいた。秀一は涼子に聞いてみた。
「この前の冬より何だか明るくなったように見えるね」
「そんなこと初めて言われました! 気づいてもらえて嬉しいです。実は、小学生の頃の親友に再会できたんです。それがとっても嬉しくて、明るくなったんだと思います」




