第6章 少年と老人 ③
ある日を境に老人は姿を消した。隼人はそのために混乱した。おじさんはどこに行ってしまったのだろう。おじさんにはまだまだ話したいことがたくさんあったのに。
隼人は来る日も来る日も河川敷に行った。そして老人がいないことに落胆した。
僕には、おじさんだけが信頼できる大人だったのに。これから誰を頼りに生きていけば良いのだろう。
周りの大人は信頼できない。親にも教師にも、隼人は心を許すことができなかった。
隼人は学校の友達に聞いてみた。河川敷のおじさんたちはどこに行ったのかな。
友達は教えてくれた。どうやら市役所に立ち退きをさせられたらしいよ。生徒の親たちから苦情があって、通学路の近くにホームレスがいるのは不安なんだって。
隼人は寂しかった。もう一度おじさんと話したいと思った。
隼人には老人としか話せないことがたくさんあった。老人だからこそ、たくさんの話を聞いてくれた。これから誰と話をすれば良いのだろう。
何より、隼人は老人のことが大好きだった。おじさんに会いたい。隼人は老人のことを思い出しては、ひそかに涙を流した。
ある日も隼人は河川敷に行った。老人がいないことは分かっていたけれど、どうしても行きたくなってしまうのだった。もしかしたら偶然、老人と再会できるかもしれない。
そこで隼人は一人の女性と出会った。いつも老人が暮らしていた橋の下に、一人の若い女性がいたのだった。
彼女はそこにうずくまって、何かの祈りを捧げていた。老人がいたところには、花が手向けられていた。
隼人はどうしても聞かない訳にはいかなかった。
「お姉さん、ここで何をしているの? おじさんはどこに行ってしまったの?」
「彼は亡くなってしまったの」
彼女は目に涙を浮かべながらそう言った。隼人はその話を信じることができなかった。
おじさんが亡くなった? ついこの前まであんなに元気そうだったのに。
隼人は現実を受け入れることができなかった。
「そんなはずないよ。ついこの前まで元気そうに僕と話していたもの」
「私も信じられないよ。でも彼は実際に亡くなってしまった。私はこの目で亡骸を見た。間違いなく、彼は亡くなっている」
「そんな……だったらこの先、僕はどの大人を信じれば良いのさ? 僕にはおじさんしかいなかったのに……」
「つらいよね。私もつらいよ。現実を受け止めきれなくて、どうにかなってしまいそう。でも、彼は亡くなってしまった。その事実は受け入れないといけない」
隼人はつらかった。老人のことを思うと涙が止まらなかった。隼人は実感していた。人は本当に死んでしまうんだと。人が死ぬという事実をそれまで隼人は記号的な概念でしか理解していなかった。隼人にとって人の死は現実の外側にあるものだった。
しかし隼人は知ってしまった。人が死ぬということのつらさを。死というものの現実性を、最期に老人は教えてくれたのだった。隼人は声を上げて泣いた。これほどに泣いたのは隼人の人生で初めてのことだった。
しばらく涙を流した後、隼人は女性を真似るように、老人のいた場所に祈りを捧げた。黙祷が終わると、隼人は女性に向き直って言った。
「あなたは誰? どうしておじさんは死んでしまったの?」
「……私も彼のことが好きだった。私が人生のどん底にいる時に出会って、いろんな悩みを聞いてくれたの」
その日、彼女は雨に打たれていた。傘を忘れて、全身がずぶ濡れになっていた。彼女は気がつくと河川敷に辿り着いていた。彼女は雨に打たれながら泣いていた。そんな彼女を老人は目にした。そして老人は彼女に声をかけた。
「大丈夫かい。そこのお嬢さん」
彼女は最初、老人の呼びかけを無視した。怪しいホームレスに話しかけられても困ると彼女は思った。しかし老人は言った。
「全身が濡れているじゃないか。傘をあげようか? 傘だけはいっぱい余っているんだ」
彼女はなおも無視した。自分が濡れていることは構わなかった。むしろ、今の自分にはお似合いだと思っていた。だから彼女は通り過ぎようとした。しかし老人は彼女を放っておかなかった。老人は、彼女から危険な雰囲気を感じ取っていたらしい。
「良いから傘を持って行きなさい」老人は彼女に傘を押し付けた。
彼女は仕方なく傘を受け取って家に帰った。そして次の日、傘を返すために老人の元を訪れた。そこから二人の交流が始まった。
彼女は婚約者だと思っていた人に逃げられたばかりだった。彼女のお腹の中にはすでに命が宿っていた。それで彼女は途方に暮れていたのだった。彼女は昨日の態度の言い訳として、そのことを老人に打ち明けた。老人は悲しい表情になって言った。
「それはつらかったね。泣いてしまうのも、絶望してしまうのも、無理はないよ」
彼女は涙が出そうになった。こうして誰かに共感してもらえたことが、自分にはとても嬉しかったらしい。彼女は老人に思い切って相談することにした。
「私、これからどうすれば良いのかな? お腹の中に子供を抱えて一人きりで。これから上手くやっていく自信がないの」
「頼れる人はいないのかい?」
老人は彼女に訊いてみた。
「いない。だから困っているの」
「それは難しい問題だね。私にもどうしたら良いのか分からないな……」
老人は言葉を詰まらせた。
「ごめんね、あなたを困らせて。でもありがとう。私は誰かに話を聞いて欲しかったんだと思う。自分だけで抱えていたのがつらかったの。だから、あなたに話を聞いてもらえて嬉しかった。ありがとう。また話をしに来てもいい?」
彼女は老人にそう言った。
「もちろん。私も、君が話しに来てくれると嬉しいよ。上手く答えられなくてごめんね」
老人は優しい表情を浮かべて彼女にそう返した。
その後も、彼女は何度か老人の元を訪れた。それは、いつの間にか彼女の習慣になっていた。ある日、彼女は老人に訊いてみた。
「恋愛って難しいね。恋愛だけじゃない。人間関係を築いて維持することって難しいよ。私、これからどうすれば良いんだろう? 自信が持てなくて困っているの」
「恋愛は確かに難しいよね。私は恋愛についてそれほど多くを語れるわけじゃない。一度離婚していることもあって。確かに人間関係を維持することは難しい。私も教えて欲しいくらいだ。君は特にどういうところが難しいと感じているんだろう?」
「一つの人間関係を長く続けられたことがないの。いつも私と誰かの人間関係は破綻して終わる。相手は必ず離れていくの。だから人間関係を築くのが怖くて」
「なるほど。どうして人間関係が破綻してしまうのだろう? 原因は心当たりある?」
彼女はしばらく考えてから老人に言った。
「たぶんなんだけど、私って控えめすぎるところがあって。相手のことを考えると自分のことが何も言えなくなってしまうの。それで相手にも気を遣わせてしまって。結局は人間関係が破綻してしまう。私って心の根底に人への恐怖があるみたいで。相手のことを考えすぎて、相手の真意を想像したら怖くなって。それで人間関係に消極的になってしまう。それが相手には嫌なんだと思うの。自分のことが本当は好きじゃないのでは、と疑わせてしまう。それで人間関係にすきま風が吹くようになる」
「なるほど。君に必要なのは勇気なのかもしれないね。対人関係に踏み出す勇気が足りていない。だから相手との関係が微妙なものになっていく。僕にも似たようなところがあるから気持ちはわかるよ。自分の意思を伝えることって難しいよね。君の場合、対人関係に躊躇していても結局、自分が傷ついてしまうのなら、もっと大胆になってみても良いかもしれない。どうせ傷つくなら、やらないよりもやって後悔した方がいい。たぶん君は相手のことを想像しすぎているんだと思うよ。真意が怖くなってしまうと言っていたけれど、たぶん相手は君が想像するほどには考えていない気がするよ」
「そうなんだよね。きっと色々と考えすぎなんだと思う。自分でもそう思うよ。相手との人間関係が悪くならないようにと思って色々と考えてしまうんだけど、それで結局うまくいかないのなら、あまり考えすぎず人間関係に踏み出した方がいいよね」
「そうだね。人間関係で大切なのは信頼関係なんだと思う。日頃から信頼関係を築くように行動していれば、例えば約束を守るとか、相手の話をよく聞くとか、自分が悪い時にはきちんと謝るとか、そういう日頃からの小さな気遣いを重ねていれば、少しくらい相手に間違ったことを言ってしまっても人間関係は崩れない。僕はそう思うよ。ホームレスの僕に言われても説得力はないかもしれないけど」
「そんなことないよ、ありがとう。今度からそうしてみる。あなたと話してちょっと気が楽になった気がするよ。また会いに来るね」
別の日も二人は河川敷で話していた。
「子育てって大変だね。子供のことは愛しているし、楽しいことも多いけれど、それでもたまに挫けそうになることがある。そんな時、どうすればいいのかなって思うよ」
「子育てか……」
老人は眉間にシワを寄せて険しい表情になった。その表情は苦しそうにも見えた。
「私は子育てについては語ってはいけない人間なんだ。私は子供を一人、不注意で死なせているんだよ。その子は食べ物を喉に詰まらせて死んだ。私がちゃんとその子を見ていなかったからだ。今でもその時の情景を夢に見るよ。その度に冷や汗をかいて目が覚める。だから私は子育てについては何も語れないんだ」
「そうなんだ……ごめんね、つらいことを話してもらって。ありがとう」
「そんなことないよ。ところで、今はもう寂しくないのかい?」
「うん、大丈夫。最近になってお友達ができたんだ。その子とうまくやっていけるのか、まだちょっと怖いところはあるけれど、でも今回はうまく行きそうな気もしている」
「そうか、それは良かったよ。君とその子がうまく行きますように」
「ありがとう。それに今の私にはあなたという友人もいるしね。あなたと話すことが実は心の支えになっているの。いつもありがとう」
「そんなことはないよ」老人は照れながらそう言った。そして老人は付け加えた。
「一つだけ言っておくと、一人きりでつらい時には、それでも誰かに頼ることを忘れてはいけないと思うんだ。どこにも頼れる人がいないと思う時でも、それでも手を差し伸べてくれる人が必ずどこかにはいる。そのことを忘れずに日々を一所懸命に生きていく。それしかないと私は思っている。私なんかが言っても、説得力はまるで無いんだけどね」
「ううん、そんなことはないよ。ありがとう。私も、毎日を一所懸命に生きていく。そうして人との関わりを少しずつ増やしていく。それ以外に孤独から抜け出す道はないんだと私も思うよ。そして、あなたも私にとっては大切な友人だからね。そのことを忘れないで欲しなって私は思ってるよ。だからあなたも寂しい時は、私に頼っていいからね」
「ありがとう」そう言った老人の目にはかすかに涙が浮かんでいた。




