第6章 少年と老人 ②
老人は終戦の年に生まれた。
田舎だったので町は大きな被害を受けなかったが、生まれた時から父親がいなかった。父親は海外で戦死したのだった。母親と祖父母が一丸となって子供たちを育てた。
彼には四つ上の兄と二つ上の姉がいた。しかし、兄は戦時中の栄養失調で亡くなった。これ以上、家族を失わないようにと母親は、祖父母の住む田舎に移住したのだった。
彼と姉はよく喧嘩をしたけれど、仲が良かった。二人で一緒に近所の神社で遊んだものだった。鬼ごっこなんかをよくした。姉は運動神経がよく、一方の彼は運動が苦手だったので、たいてい彼は姉に勝つことができなかった。
でも彼は姉のことが好きだった。彼の体が弱い分、姉はよく彼のことを守ってやった。彼が近所のガキ大将にいじめられた時も、体格の良い姉は彼を庇ってやり返した。
彼は地元の小学校と中学校に通学した。運動は苦手だったけれど、勉強は得意だった。テストではよく満点を取って家族を喜ばせた。
しかし、彼が頭の良さを発揮できるのは、問題用紙の中だけだった。
実生活の知恵となると、彼はうまく頭が回らなくなった。
人間関係の中でどう立ち回れば良いのか、他人と軋轢を起こさずに自分の意思を示すにはどうすれば良いのか、彼は何も分からなかった。
それで彼は、子供の頃から漠然とした生きづらさを抱えていた。その生きづらさを、彼はどうする方法も持たなかった。
この頃はまだ、生きづらさを抱えた子供を大人が支援するという発想を、誰も持っていなかった。家族も、彼の理解者になることはできなかった。
それで彼はいつも孤独を抱えていた。自分はどうして生きていけばいいのだろう。どうして生きていくことがこんなにも苦しいのだろう。その答えは誰も教えてくれなかった。
高校は、地元から少し離れたところにある進学校に、電車で通った。
彼はそこで挫折を経験した。今までの彼は、勉強だけは他者よりも優れていた。それが彼に残されたわずかな自尊心の拠り所だった。
でも、進学校での成績はあまり良いものではなかった。高校では彼よりも勉強のできる者がいくらでもいた。彼は進学校に入った途端、むしろ劣等生になってしまった。それが彼の最後の自尊心を失わせてしまった。
彼は自分に対して自信が持てず、いつも怯えたような人間になってしまった。彼は学校に通うのがつらくなった。そしていつしか学校に通うのをやめてしまった。
引きこもりになった彼を、家族は許してくれなかった。彼は学校だけでなく、家族の中でも孤立してしまうことになった。
彼が引きこもりになったことで家族は憤慨した。今まで自分たちは頑張ってきたのに、一人だけそんな甘えが許されて良いはずがない。家族は無理やり彼を外に出そうとした。
特に姉は、何とか彼の弱さを正そうとした。本当のお前はそんなものじゃない。お前は本当はもっと強い人間のはずだ。そうして姉は彼を強引に部屋から連れ出した。
でも彼は、現実を直視できるような精神状態にはなかった。その時の彼に必要だったのは、現実と向き合うことではなく、摩耗した心を静かに癒すことだった。
彼は姉の説得もあって学校に再び通い始めたけれど、心は疲弊していく一方だった。
ある朝、彼はついに動けなくなった。布団から出ようにも体が動かなくなっていた。
姉はいつものように彼を叩き起こそうとした。でも、姉は彼を見て絶句した。その目は明らかに死んでいたのだった。焦点を失い、絶望に染まった目をしていた。
そこで姉は悟った。今まで彼を相当、無理させていたことに。
姉はその日から彼の不登校を許すようになった。姉から話を聞いた家族も、不登校を渋々容認することにした。
このままでは彼の人格が崩壊してしまう。そう言って、姉が家族に迫ったのだった。
彼はやがて高校を中退した。そして地元の公立高校に通学するようになった。
公立高校では進学校のように息苦しさを感じることはなくなった。心の疲弊はまだ付きまとっていたけれど、それでも継続して通学できるまでには回復した。
彼は高校を卒業した後、大学には進学しなかった。彼の学力では大学進学は十分に可能だったけれど、彼はもはや勉強に魅力を見出せなくなっていた。
彼は地元の公立図書館で司書として働き始めた。
書籍の山に埋もれた環境にいれば、彼はうまく呼吸をすることができた。現実につらいことがあっても、本を紐解けば彼が生きていける世界があった。
そして彼は働き始めた図書館で、運命的な出会いを果たすことになった。
二つ年上の職場の女性と恋に落ちたのだった。彼とその女性だけが職場で若者だった。他の職員は中年以上ばかりだった。それで二人は自然と仲良くなった。
ある日、彼は思い切って女性に告白した。
あなたのことが好きです。僕の恋人になってください。
彼女は言った。これからよろしくお願いします。
まもなく二人は結婚することになった。それは彼にとって束の間の幸せな時代となった。
結婚生活はとても楽しかった。今までの人生が正反対に入れ替わるくらいの充実した日々だった。
やがて二人には子供が生まれた。双子の女の子だった。彼はこの上ない幸せを噛み締めていた。長くて暗いトンネルを抜け出して、ついに自分は光の中に出てきたのだ。
彼は生まれてきた女の子たちをとても可愛がった。
ハイハイが出来るようになり、立ち上がって歩けるようになり、言葉を話すことができるようになり、そんな成長の一つ一つを彼は愛おしく見つめていた。
しかし幸せは長く続かなかった。三歳の誕生日に子どもの一人が死んでしまった。それはあまりにも突然の悲劇だった。
原因は窒息だった。彼が少し目を離した間に、子どもは食べ物を喉に詰まらせて、心肺停止となった。
子どもの変わり果てた姿を目にした時、彼は全身から血の気が引いていくような恐怖を感じた。
すぐさま子どもを病院に連れて行き、そこで懸命な蘇生が試みられた。しかし、子どもは息を吹き返すことなく、そのまま亡くなってしまった。
彼は絶望した。自分の不注意が、最愛の子どもを死なせてしまったなんて。
彼は眠れなくなり、食欲を失った。気分は落ち込み、何をする気にもなれなかった。
加えて、妻が彼を責めた。あなたがちゃんと見ていてくれなかったから。そう言って、妻は何度も彼のことを詰った。それを彼はなすがままに受け入れた。
自分は罪悪な存在だ。自分は生きていても他人を傷つけるだけの存在だ。自分は生きていてはいけないのだ。次第に彼は自分を追い詰めるようになった。
そして彼は自殺を図った。ある日、彼は自宅であるマンションの四階から飛び降りた。しかし、彼は死にきれなかった。下には生垣があり、地面は思いのほか柔らかかった。
それで彼は、全身の至るところに骨折をしたけれど、何とか一命を取り留めた。
彼は救急病院で骨折の治療を受けた後、精神科病院に転院となった。そこで彼は骨折のリハビリをしながら、精神的な治療を受けることになった。
投薬治療のおかげで、彼の精神状態は落ち着きを見せた。そして彼は、合わせて半年間の入院生活を終えて、退院となった。それから彼は、妻と離婚することになった。
あなたとはもう一緒に生きていける気がしない。ごめんなさい。たぶん私は、これから何度もあなたのことを追い詰めてしまうと思うから。
彼は本当は離婚したくなかったけれど、妻の切実な姿を目にして、離婚は受け入れざるを得ないと思った。そして幸せな結婚生活は終わりを迎え、彼は再び孤独になった。
彼は仕事を失った。当時は精神疾患へのスティグマが強く、自殺未遂を犯した人間など雇えないと言われた。それで彼は好きだった司書の仕事を辞めざるを得なくなった。
彼はそれから仕事を転々とした。いろいろなアルバイトをした。あるいは日雇いの仕事をして食い繋いだ。
彼は生きる目的を見失っていた。ひたすら食べるために働く。そんな日々が続いた。彼の心はもはや死んでいた。何かを求めることがなくなっていた。夢や希望はすでに失っていた。
そんな中、彼は一つの求人に行きついた。それは介護の仕事だった。
その仕事を選んだことに理由はなかった。彼はただ食べるための手段として、介護職に応募した。そして彼は、高齢者施設で介護士として働き始めた。
それは彼に一つの充実感をもたらした。誰かのために貢献すること。それは彼に生きることの意味を見出させた。
自分のことは大切にできなくても構わない。まずは他者を大切にすることができたら、それは自分の人生に活力や彩りを与えてくれる。
彼は介護職に精を出した。やがて彼は二度目の結婚をした。彼女とは職場で出会った。年下の先輩として、彼の指導係となっていた。彼女と次第に仲良くなり、二人はまもなく結婚した。彼は四十歳、彼女は三十三歳だった。彼は再び幸せを手にしたはずだった。
しかしその生活は長くは続かなかった。結婚した翌年に、彼女は亡くなってしまった。スキルス性の胃がんだった。結婚して半年が経った頃から、彼女は腹部の違和感と全身の倦怠感を自覚するようになっていた。
しかし、彼女はそれを精神的な疲労だとして気にかけなかった。ある日、彼女は仕事中に血を吐いた。すぐさま救急病院に搬送され、止血と検索目的に内視鏡が実施された。
そこで彼女に胃がんが見つかったのだった。進行性の胃がんであり、すでに全身に転移していた。治療を施すための余地は残されていなかった。
彼女は胃がんが見つかって半年後、三十四歳の誕生日を迎える直前に亡くなった。彼は絶望した。ようやく幸せを手にしたと思ったのに、最愛の人を失ってしまった。
妻の死に加えて彼を追い詰めたのが、仕事の解雇だった。勤めていた高齢者施設を経営していた会社が、倒産したのだった。
運営主体が変わった施設は、人員を入れ替えるためとして、それまで勤めていた介護士たちを一斉に解雇した。もちろん納得のいく解雇ではなかったが、妻の死に直面して絶望の渦中にいた彼は、抗議する気力も残されていなかった。
彼は再び家族と仕事を失った。同時に生きる意味も再び見出せなくなった。彼は全てがどうでもいいと思った。そうして彼は全てを投げ打ち、ホームレスになったのだった。




