第6章 少年と老人 ①
町田隼人は泣いていた。彼は十歳の少年だった。
学校からの帰り道、ランドセルを背負って河川敷に座り、顔を伏せて泣いていた。
隼人の耳にはいろんな声が聞こえてきた。その中には子供たちの楽しそうな声もあって、彼は耳を塞ぎたくなった。僕は全然、楽しくないのに。そんな気持ちにはなれないのに。
隼人は今日もまた学校で怒られたのだった。自分には悪気がなかったのに。
彼は授業を受けていた。自分では真面目に受けていたつもりだった。でも教室の中に虫が飛び込んできた。彼はそれに見入ってしまった。
隼人は気がつくと立ち上がり、虫を追いかけようとしていた。そこで先生に怒られた。
「どうしてお前はいつもそうなんだ」先生にはそう言われた。
でも何が「そう」なのか隼人には分からなかった。それで唖然としていたら先生に余計に怒られた。彼は自分の何が悪いのか分からないまま、それを教えてくれることもなく、先生に怒られた。
それが彼には悲しかった。自分はどうすれば良かったのだろう。
どうやら僕は人と違うみたいだ。人が当たり前のようにできることが自分にはできない。人が当たり前のように理解していることを自分は理解していない。
隼人は人から怒られるたびにそう感じてきた。
でも、自分が人とどう違っていて、自分の何が悪いのか、隼人は考えてもさっぱり分からなかった。その答えを誰も教えてくれなかった。自分で考えて分かることならこうして苦労はしなかった。
彼はある日、一度だけ母親に相談してみた。
「僕はどうやら人と違うみたいなんだ。でも、自分のどこが違うのかさっぱり分からないんだ。だから教えて欲しいんだ。自分の何が良くないのか」
でも、母親からの返事は困惑するものだった。母親はそれを聞いて泣きながら言った。
「どうしてそんなことも分からないの。どこでこの子の育て方を間違えたんだろう」
泣きたいのは自分の方だった。そんなことを言われても困ると隼人は思った。せめて僕の何が良くないのかを教えてくれたら。
でも、誰に聞いても今までちゃんと教えてくれる人はいなかった。そしてなぜか、尋ねられた皆が同様に鬱陶しがった。
どうしてだろう。どうしてみんなそんな態度になるのだろう。自分の何が悪いのだろう。だったら自分はどうすればいいのだろう。
そうして泣いていた時、隼人は一人の老人と出会った。その老人は通学路に近い河川敷でホームレスをしていた。隼人はその河川敷で泣いていたのだった。
老人はなんだか体調が悪そうだった。隼人から少し離れたところに座っていて、自分の腹部を抱えてうずくまっていた。
隼人は老人のことが心配になった。だから話しかけることにした。
「大丈夫ですか? お腹が痛いんですか?」
「大丈夫だよ。ちょっとお腹を下したみたいだ。様子を見ていれば何とかなるよ」
でも老人の額には冷や汗が浮いていた。老人は明らかに苦しそうだった。
「本当に大丈夫? 救急車を呼ぼうか?」
「それは本当にしなくていいよ。おじさんは医療を受けるお金がないんだ」
「そうなんだ……」
そこで隼人はランドセルの中に整腸剤があることを思い出した。隼人は下痢になりがちで、そのために持ち歩いていたのだった。
「おじさん、整腸剤があるからあげるよ。とりあえずこれを飲んで休んでよ」
隼人は整腸剤の瓶を取り出して、錠剤を三つほど差し出した。
「そうかい。だったら薬をいただくよ。ありがとう、少年」
そう言われて隼人は少しだけ誇らしくなった。老人は整腸剤を飲むとしばらくその場でじっとしていた。すると次第に老人の表情から険しさが取れていくのが分かった。
しばらくして隼人はまた老人に話しかけた。
「大丈夫になった? さっきよりも元気そうに見えるよ」
「あぁ、腹痛は大分おさまったよ。ありがとう」
そう言って老人はこの日はじめての笑顔を見せた。隼人は嬉しくて自分も笑顔になった。
次の日も隼人は河川敷に行った。そこで老人と再会することになった。
「おじさん。あれからお腹の調子は大丈夫?」
隼人は老人に聞いてみた。老人は優しそうな笑顔を見せて言った。
「もう大丈夫だよ。ありがとう。君は優しいね」
「そんなことないよ。優しいなんて誰にも言われたことない」
「そうなのかい。君は私が出会ってきた人たちの中で誰よりも優しいよ」
「そうかなぁ。そうだといいけれど」隼人は嬉しくなって鼻の下が伸びていた。
「そうだとも。君はとても良い子だ。それは私が保証する。私なんかじゃ頼りないけど」
「ありがとう、おじさん。そう言ってもらえて僕は嬉しいよ」
隼人は笑顔でそう言った。老人にこうして認めてもらえたことが、なぜか隼人はとても嬉しかった。周りの大人たちのことはあまり信用できないけれど、このおじさんのことはなぜか信じられる。隼人は心の中でそう思った。
隼人はそれからも学校の帰りによく河川敷で時間を潰した。そのうちに気づけば老人と仲良くなっていた。学校の人たちはホームレスのことを気味悪がっていたけれど、隼人はこの老人のことが好きになっていた。それで隼人は毎日のように老人に会いに行った。
ある日、隼人は老人に聞いてみた。
「どうして僕はいつも怒られるんだろう。自分では何も悪いことをしていないつもりなのに、ただみんなと同じように普通に過ごしているつもりなのに、なぜか僕はよく怒られるんだ。でも、自分の何が悪いのか分からなくて、大人たちに聞いても答えてくれなくて、それで僕は困っているんだ。時々そのことがつらくなって、僕は泣いてしまうんだ」
老人は静かに言った。
「それはね、君が自分たちと違うことがきっと気に食わないんだよ。君は何も悪くない。君の行動が自分たちの理解を超えているから、それで気味悪く感じてしまう。それは君の問題ではなく、周りの人たちの問題だ。だから君は、自分が正しいと思うことに従って、堂々と生きていればいいさ。君はそのままの君でいい」
隼人はそれを聞いて涙を流した。こうしてありのままの自分を認めてくれた人は初めてだった。隼人はこの老人のことが大好きになった。周りのどんな大人よりも信頼できると隼人は思った。それで隼人はこの老人に時折、悩みを打ち明けるようになった。
隼人は本を読むのが好きだった。暇さえあれば図書館に行って本を読んだ。あるいは本を借りて家で読んだ。本を読んでいる時の何かに没入するような感覚が好きだった。嫌なことや悩みを全て忘れられた。本を読んでいる時は穏やかな気持ちでいられた。
でも隼人は勉強があまり得意ではなかった。興味のあることならいくらでも知識を吸収することができた。一方で学校の勉強にはほとんど興味を持てなかった。
自分が読みたい本はいくらでも読むことができたけれど、学校の教科書や課題を目の前にすると、うまく頭が回らなくなった。学校の授業にはどうしても集中することができなかった。それが隼人の悩みの一つになっていた。
それである日、隼人は老人に聞いてみた。どうして勉強をしないといけないのだろう。興味があることなら勉強できるのに、学校の勉強には上手くついていけないんだ。
老人は優しい表情を少年に向けながら言った。
「それは難しい問題だね。実は私にも似たようなところがあるんだ。興味のあることならいくらでも没頭できるけど、そうでない物事を目の前にすると、私もうまく頭が回らなくなってしまう」老人は遠い目をして、過去の自分を思い出す。
「君と同じだ。私も君と同じことで苦労してきた。そして私は絶対に関心を持たなければいけない物事にうまく目を向けられなくて、今こうしてホームレスになってしまっている。君には私と同じようになって欲しくないなと思う。でもどうすれば良いんだろう? 君は本を読むのは好きなんだよね?」
「うん、好きだよ」と隼人は答える。「図書館の本だったらいくらでも読めるんだ。でも、これを勉強しなきゃいけない、テストで点を取らなきゃいけないって義務になってしまうと、とたんに教科書がうまく読めなくなってしまうんだ。どうしてだろう?」
「どうしてだろうね。勉強を義務だと思わなくなれば良いんだろうけど。読書と同じで、勉強は楽しいものだって思えたら良いんだけどね」老人は間をおいて続ける。
「テストで点を取らなきゃいけないとか、これは絶対に身につけなければいけないとか、自分は勉強させられているんだとか、そういうことを忘れて、図書館の本と同じように、ただ純粋に教科書を開くのを楽しんでみるのはどうだろう?」
「なるほど。確かにそれは良いかもしれない。でも頭では分かっていても、実際にうまくできるものなのかな? 勉強がうまくできなくて、テストで点が取れなくて、それで親や先生に怒られて、それを繰り返しているうちに、勉強することが苦しくなってしまったんだ。教科書やプリントを目の前にすると息が苦しくなってしまう。それでますます勉強ができなくなってしまうんだ」
「それはつらいことだね。どうすれば良いんだろう? おじさんにも難しいな。ごめんね、うまく答えられなくて。何か良い答えを言ってあげられたら良いんだけど」
「ううん。そんなことない。話を聞いてもらえて、それだけで気持ちが楽になった。ありがとうおじさん。おじさんに教えてもらったことを試してみるよ。図書館の本と同じように教科書を開くことを楽しんでみる。それでうまくいくかは分からないけれど、でも道は開けたような気がするよ。それじゃあ行くね、おじさん。家に帰って早速やってみる」
「うん。気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうおじさん。また会おうね」
隼人は争いごとが苦手だった。目の前でいさかいを見るたびに、隼人はつらい気持ちになった。
どうしてみんな喧嘩するんだろう。どうしてみんな仲良くできないのだろう。
彼の両親は仲が悪かった。顔を合わせるたびに喧嘩していた。それが彼はつらかった。
学校でもそうだった。誰かが喧嘩しているのを見るたびに、彼は居たたまれない気持ちになった。なぜか胸の奥が苦しくなるような感覚があった。
もっとみんな仲良くしてよ。そう叫びたくなる衝動に駆られた。
実際には心の中で気持ちを押し殺していたけれど。
先生が誰かに怒っているのを見ても同じような気持ちになった。
どうしてそんな怖い顔をするの。彼は震えることになった。一体、その顔の裏にどんな恐ろしい真意が隠されているのだろう。
彼は人の怒りの裏に恐ろしい何かを想像してしまうのだった。
隼人がつらい気持ちになるのは実生活に限らなかった。ニュースで殺人事件があったり、どこかの国で戦争をしていたり、そうして誰かが争っているのを見たり聞いたりするだけで、隼人は気分が悪くなった。どうしてみんな傷つけ合わなければいけないのだろう。
隼人は老人に聞いてみた。
「どうしてみんな争わなければいけないの? どうしてみんなお互いに傷つけ合うの? どうしてみんな恐ろしい顔をしているの?」
老人は険しい表情になって隼人に言った。
「どうしてだろうね。私も君の気持ちはよく分かる。私も同じようなことで苦しんできたからね。どうしてみんな争い合うのか。それは私に人間への恐怖を感じさせた。それで私は人間の社会にうまく馴染むことができなかったんだ。どうすれば争いがなくなるのか。あるいはどうすれば争いに恐怖を感じずに済むのか。今日は一緒に考えてみよう。本当はみんながお互いに優しくなれたら良いのだけど」
「そうだよね。みんなが優しくなれたら争いはなくなるはずなのに。どうして優しくなれないのだろう? おじさんは何か思い当たるところはない?」
「もしかしたら人に優しくするよりも、自分の意見を通すこと、相手を屈服させることを優先しているのかもしれない。僕らとは物事の優先順位が違うのかもしれない。人に優しくしても自分の利益を得ることはできない。みんなはそう考えているんじゃないのかな。だからお互いに傷つけても平気でいる。私はそんな気がするよ」
「そうなのか。どうすればみんな人に優しくなれるのだろう?」
隼人は老人に訊いてみた。老人はしばらく考えてから答える。
「人に優しくすることが回りまわって自分の利益にもなる。そう思えたら良いのかもね。人に優しくすれば自分の気持ちが良いし、周囲の人間関係も円滑になるし、自分の評価も上がるし、本当は良いことばかりなんだけどね。もしかしたら人に優しくすることと誰かに負けることを同一視しているのかもしれない。他人を立てれば自分が落ちる。そういう価値観に囚われているのかもしれない。本当は全く別の問題なのだけど」
「なるほど。何となく分かった気がするよ。他者に優しくすることが自分の利益になると分かれば人は優しくなれる。でもどうすれば分かってくれるのかな?」
「本当は人に優しくすることと自分の利益を得ることは両輪なんだと思う。でも、人は往々にしてどちらかに偏ってしまう。優しい人は強くないし、強い人は優しくない。そう人は思い込んでしまうし、実際にそういう人たちが多いのも事実だ。現に私自身が優しさだけを優先して、強さをどこかに置き忘れてしまった人間だ。本当は強さと優しさの両方を兼ね備えていなければならない。今になって私はそう思うよ。それがみんなの共通認識になったら良いのだけど。どうすれば良いのだろう? 私にもよく分からないな」
「でもおじさんと話して少しだけ気が楽になった。どうしてみんな争うのか。その理由が分かったからね。優しさよりも自分の利益を優先している。だから人は争う。でも優しさだって自分の利益につながることを知れば、人は優しくなれるし争いは無くなっていく。
もちろん簡単にはいかないけどね。そのことを知れただけで光が見えた気がするよ。まずは僕から始めることにする。僕自身が優しさと強さを兼ね備えた人間になる。そうなれるように頑張っていくよ」
「うん。君のことを応援しているよ。そして私も君に負けず、強さと優しさを兼ね備えた人間になれるように頑張ってみる。そうすれば私も人生をやり直せるかも知れない」
「一緒に頑張ろうね、おじさん。僕たちは仲間だね」
「そうだね、私たちは仲間だ。一緒に頑張っていこう」そうして二人は手を握り合った。
隼人は以前から疑問に思っていた。
どうして人は生まれるのだろう? 人は何のために生きているのだろう?
それは隼人が長い間ずっと考えてきたことだった。人生の意味。そういうものを考えていると、隼人は雲を掴むようで気が遠くなった。
僕は何のために生まれてきたのだろう? どのように生きていけばいいのだろう?
少年は分からないことだらけだった。そんな疑問が浮かんだ時、彼は自分の将来が怖くなった。自分は正しく生きていけるのだろうか?
隼人は老人にその疑問をぶつけてみた。人生の意味って何なのだろう?
老人はしばらく考えてから隼人に言った。
「それは私にも分からないよ。人生の意味が分かっていたら、こうしてホームレスなんかしていないさ。そもそも人生の意味に一般論なんかあるのだろうか? 君はやりたいことはないのかい?」
隼人はしばらく考えてから言った。
「僕のやりたいこと……それがよく分からないんだ。僕が好きなことと言ったら本を読むことくらいだし、自分が将来何をやりたいのか何も思いつかないんだ」
「そうなんだ。君はまだ子供だから焦る必要はないと思うけど。でも、将来のことが見えないと不安になってしまうよね。その気持ちは私にもよく分かる。思うんだけど、自分がやるべきことというのは、頭の中で考えても分からないんじゃないのかな。今できることを一所懸命にやっていく中で、自然と見えてくるものなんじゃないかなと私は思う。君も目の前にある勉強や遊びを一所懸命にすることが、今は大事なんじゃないのかな」
「なるほど、分かったよ。自分が今できることを全力でやることにするよ。それで自分の人生の意味が見えてくるかどうかは分からないけれど。よく考えたら自分が今できることしかできないもんね。ありがとう、おじさん。とりあえず僕は学校の勉強を頑張ってみるよ。そのうちに自分がどう生きていくべきか分かる日が来るかもしれない」




