第5章 天国と地獄 ②
二学期の教室で、涼子はひとりぼっちだった。秋の陽光がカーテン越しに差し込む中、彼女は机に伏していた。彼女の目からはひそかに涙が流れていた。
どうしてこんなことになったのだろう?
校庭から聞こえてくる楽しそうな声に傷つきながら、涼子は考えていた。
私はどこで間違えたのだろう? どうしていじめられるようになったのだろう?
それはいくら考えても答えの出てこない問いだった。
涼子は思い出す。最初は仲間はずれや悪口から始まった。
涼子の耳にクラスメイトから言われた言葉がフラッシュバックする。
「お前なんて邪魔なだけだから。生きている価値もない。さっさと消えろ」
彼女たちはそう言ってゲラゲラと笑っていた。恐怖と屈辱が涼子を襲った。
涼子は絶対に泣きたくなかった。それでも涙は自然とあふれてきた。涼子は俯いていたが、体の震えと共にたくさんの涙が流れた。
その涙を見て彼女たちはより一層に笑った。
「こいつ泣いているぞ。おもしれぇ!」
涼子は拳を精一杯に握りしめながら、何も言い返すことができなかった。それが涼子にとっては悔しいのと同時に、自分のことが情けなかった。
どうして私はこんなに弱い人間なのだろう。つらい状況を目の前にして、泣くことしかできないなんて。私はなんと情けないんだろう。
涼子はトイレの個室でうずくまっていたこともあった。彼女は全身がずぶ濡れになっていた。扉の向こうではクラスメイトたちが嘲るように笑っていた。
涼子は無理やりトイレに連れ込まれていた。個室に押し込まれるとバケツで頭から水をかけられた。
「おめぇ汚ねえからさ。ウチらできれいに洗ってやんよ」
涼子は個室から引きずり出されると、今度はモップを顔に押し付けられた。
涼子は痛みに必死に耐えながら、感情を殺してその場をやり過ごそうとしていた。
彼女は繰り返し水をかけられては体にモップを押し付けられた。彼女の髪や制服が次第に傷んでいった。
苦痛に耐えながら涼子は思った。私はひとりぼっちだ。この先きっと永遠に。
そこで涼子の脳裏に思い浮かんだのは夏実の顔だった。
あぁ、夏実に会いたい。全てを打ち明けたい。そして以前のように一緒に笑いたい。
でも私にはそれができない。このことは夏実にだけはどうしても言えない。夏実に心配をかけてしまうから。
きっと夏実は今、新しい環境で楽しく学校生活を送っているはずだ。
そんな彼女の日常に水を差すわけにはいかない。夏実には純粋に笑っていてほしいんだ。
どうしてこうなってしまったのだろう? 私はどうすればいいんだろう?
涼子は恐怖と屈辱に耐えながら、ただ涙を流すことしかできなかった。
いじめられるきっかけは涼子には分からなかった。
いじめは二学期になって突然、始まったのだった。
二学期の初日、下校中に涼子は何人かの女子生徒に囲まれた。彼女たちは涼子を路地裏に追い詰めると口々に言った。
「今日からお前をいじめることにしたから。いっぱい可愛がってやるから楽しみにしてな」
そう言って彼女たちは笑った。涼子は恐怖を感じた。
「どうして……どうしてそんなことをするの?」涼子は怯えながら彼女たちに聞いた。
「そういうところがムカつくんだよ」そう言って女子生徒の一人は涼子の髪を掴んだ。
「理由を自覚していないお前が悪いんだからな」別の女子生徒は冷たく言い放った。
そうか、私が悪いのか。自分のせいで私はいじめられることになるのか。
自分の何が悪いのか、思い当たるところはなかった。
でもきっと私は何かをしてしまったから、こうして罰を受けているのだろう。
涼子は全身から力が抜けていくのを感じた。
私は罪を犯した人間なのだ。だから私がいじめられるのは当然の報いなのだ。
涼子はそう考えることしかできなかった。
自分を責めることは知っていても、他者を責めることを涼子は知らなかった。
何も言わずに無抵抗になった涼子を見て、女子生徒たちは言った。
「やっぱりお前は気味が悪い。これからしっかり教育してやるから覚悟しろよ」
女子生徒たちによる涼子へのいじめはクラスに共有されることになった。彼女たちが他の生徒たちにひとりひとり圧力をかけたのだった。
「お前も絶対にあいつのことは無視しろよ。じゃないと分かっているよな」
そうして涼子への無視が始まった。クラスメイトに話しかけても、涼子は無視された。涼子は存在しない者として扱われることになった。
涼子はつらかった。どうして私はこんな目に遭わないといけないのだろう?
同時に涼子は思っていた。きっとこれは私が犯した何らかの罪の報いなのだと。
だからこそ涼子は泣きながら我慢することしかできなかった。
涼子は無視や仲間はずれだけでなく、やがて身体的な暴力を受けるようになった。
女子生徒たちに物陰に連れ込まれると、涼子はみぞおちを殴られた。
苦しみに悶えながらしゃがみ込む涼子を見て、彼女たちは蔑むように笑った。
トイレに連れ込まれて汚されることも日常茶飯事となった。全身に水をかけられ、体にモップを押し付けられた。それは涼子から徐々に自尊心を奪うことになった。
時には服を無理やり脱がされることもあった。トイレで全身に水をかけられた後、彼女たちに服を引き剥がされた。
裸となった涼子は縄跳びで縛りつけられた。その姿を写真に撮られることもあった。
あるいは彼女たちの前で自慰を強要された。それは屈辱以外の何ものでもなかった。
涼子は泣きながら自分の性器を触った。その姿を見て女子生徒たちは大声で笑った。
「こんなことをしているなんてキモいなお前。みんなが知ったらどう思うだろうな」
涼子は誰にも相談することができなかった。いじめのことは両親にも黙っていた。
両親には余計な心配をかけたくなかった。自分のことで悲しい顔をさせたくなかった。
そもそも自分には他人に助けを求められるほどの価値もない。涼子はそう思っていた。
いじめられることになったきっかけは自分には分からない。
でもきっと自分が蒔いた種なんだ。
自分のせいで私はいじめられている。私が犯した何らかの罪に対して罰を受けている。
だから私はいじめを甘んじて受けなければならない。
涼子はそう考えるようになっていた。それが歪んだ思考だという自覚はなかった。
中学一年生が終わるまで、涼子へのいじめは続いた。
仲間はずれにされ、無視され、身体的暴力、性的虐待が繰り返された。
涼子にとってそれはまさしく地獄のような日々だった。
中学二年生になりクラス替えが行われると、涼子へのいじめは自然と収束した。涼子をいじめていた女子生徒たちとはほとんどが別のクラスになっていた。
もしかしたら彼女たちは新しいクラスで新しいターゲットを見つけたのかもしれない。しかしそこに深入りする勇気は涼子にはなかった。
もうあんないじめは受けたくない。それだけが涼子の切実な願いだった。
涼子へのいじめは収束したけれども、涼子は新しいクラスでも孤立したままだった。
涼子はいじめを通して人間不信に陥っていた。誰のことも信じることができない。
それはもともと人好きな涼子にとって非常につらいことだった。
みんなと仲良くしたいのに、自分の中の何かが邪魔をして人と関われなくなっている。
自分はこの先ずっと孤立したままなのだろうか。この先ずっと孤独を抱えて生きていくのだろうか。
クラスメイトたちも涼子のことを避けていた。涼子がいじめられていたことはひそかに共有されていた。涼子と仲良くすることで自分が目をつけられることが嫌だった。
それに当時の涼子には、どこかしら人を寄せ付けない雰囲気があった。
いじめを通して人間不信に陥っていた涼子は、いつの間にかその雰囲気を醸し出すようになっていた。自分の意図するところとは違って。
夏実に会いたい。会ってあの頃のように笑いたい。それを夢想することだけが、涼子にとって淡い希望となっていた。
あの頃は楽しかった。心の底から純粋に笑うことができていた。それなのに。
いつから自分は変わってしまったのだろう。
心から純粋に笑うことができない。それはいじめの前からそうだったように思う。
どうしてこうなってしまったのだろう。それが自分には分からない。
自分には分からないことが多すぎる。そのせいで私はいろいろと迷ってしまう。
もしまた夏実と心から笑い合うことができたら。どれほど素敵なことだろう。けれど、どんな顔をして夏実に会ったらいいのか分からない。
自分はもうあの頃とは違う。今の私は心から笑うことができない。
こんな私は夏実にはふさわしくない。夏実と一緒に笑い合う資格がない。
だから涼子は、自分から夏実に会いたいと言うことができなかった。




