第5章 天国と地獄 ①
今日は夏実が涼子の家に遊びに行く。昨日、夏実の家でそう約束したのだ。
夏実はとても楽しみだった。涼子はどんな家に住んでいるのだろう。そこでどんな生活を送っているのだろう。想像するだけでワクワクする。
今日の夏実はいつもと服装が違う。いつものTシャツとショートパンツとは違い、夏実なりに精一杯のおしゃれをしていく。
綺麗にクリーニングされたフリルつきの白いシャツと水色のスカート。
まるでデートに行くような気合の入れ方だと思う。いつもはしないメイクもした。
どうしてこんなにおしゃれをしたくなったのか分からない。もしかしたら、いつも綺麗な涼子に影響を受けたのかもしれない。
夏実は昼前に出かける。涼子の家はそれほど遠くないところにある。体力のない夏実ですら歩いて行けそうな距離だった。
今日は相変わらず暑いなと夏実は思う。外にいるだけで溶けていきそうな暑さだった。
夏実は蒸し暑さに顔をしかめながら歩いていく。そして涼子の家にたどり着く。
涼子の両親はこの町でカフェを開いている。夏実が訪れた時はちょうど両親はカフェで働いている時間で、家には涼子だけがいた。
涼子は二階建ての西洋風のおしゃれな家に住んでいた。家のチャイムを押すと、涼子が玄関で出迎えてくれた。襟付きの白いノースリーブと細身のジーンズという格好だった。
「ようこそいらっしゃい。楽しみに待っていたよ、夏実」
「お邪魔します、涼子。今日はいっぱい料理のこと教えてね」
夏実は料理を教えてもらうために涼子の家に来た。だからそのための食材も持ってきていた。祖母の秋恵に頼んで分けてもらったのだった。
「まずはゆっくりしていって」と涼子が言う。
「ありがとう」そう言って夏実は家の中に入った。
夏実は一階のリビングに通された。「そこのソファに座って」と涼子に言われた。
「ちょっと待っていて。飲み物を持ってくるから」そう言って涼子は台所に引き下がる。
夏実はソファに座って、涼子が戻ってくるのを待っている。
落ち着かないまま夏実は家のリビングを見渡す。西洋風に統一された綺麗な部屋に夏実は感心してしまう。実家の雑多な雰囲気とは大違いだと夏実は思った。
涼子がお盆を丁寧に持って台所から戻ってくる。お盆の上には二人分の紅茶とマカロンが載っている。夏実は思わず「おぉ!」と声を上げる。
「めちゃくちゃおしゃれじゃん。すごいね、涼子」
「まぁね。夏実のために準備したんだよ」
「ありがとう。とても美味しそうだよ」
「どうぞ、召し上がれ」そう言って涼子は夏実のすぐ隣に座った。
涼子は夏実に密着するように座る。お互いの体が触れ合うくらいの近さだった。
夏実は自分の左肩に涼子の体温を感じる。なぜか夏実はドキドキしてしまう。
どうしてだろう? 私は涼子に緊張しているのだろうか? いや、緊張とはどこか違う感覚だと夏実は思う。だとしたらこの高揚感は何なのだろう。
すぐ隣にいる涼子は、夏実と密着していることなど気にしていないかのように、紅茶をすすっている。礼儀が正しくてエレガントな作法で紅茶をたしなんでいる。
涼子は私のようにドキドキしないのだろうか? 夏実はなぜか気になってしまう。
私は涼子にもドキドキしていて欲しいのだろうか? だとしたらどうして?
考えても分からないことが頭の中を駆け巡っていく。
自分の顔が紅潮していることに気がつく。このドキドキは一体、何なのだろう。涼子は私と同じ女の子だというのに。
そこで夏実は、自分がまだ紅茶を飲んでいないことに思い至る。
夏実は音を立てて紅茶を飲んでいく。作法などあったものではない。
「ごめんね、こんな荒っぽいやつが家にお邪魔してしまって」
「夏実は荒っぽくないよ」と涼子は平然という。「とても美味しそうに飲んでくれて私は嬉しい」ああ、こういうところが涼子の好きなところなのかもしれない。
夏実と涼子は肩を寄せ合ってソファでくつろいでいる。そこには穏やかな時間が流れている。こんな時間がずっと続けばいいのにと夏実は思う。
「そろそろ料理はじめよっか」涼子は隣の夏実に声をかける。
「だよね。そうなるよね」と夏実は言う。
本当はもう少しのんびりくつろいでいたいけれど、今日の目的は料理なのだから仕方がない。夏実は老人のように重い腰を上げる。
「よっこらしょ」そう言って夏実は立ち上がる。
そんな夏実の様子を見て、涼子はクスクスと笑う。
涼子のその笑顔が可愛いなと夏実は思う。
夏実の後に続いて涼子も立ち上がり、二人はキッチンに向かう。
「さて、何からすればいいんだろう?」と夏実は聞く。今日は二人で肉じゃがを作ることになっている。難易度の高そうなテーマに夏実はつい怖気付いてしまう。
「まずはジャガイモとにんじんを包丁で切ろう」と涼子は言う。
涼子はジャガイモの切り方から、手取り足取り教えてくれる。夏実の手つきは覚束ないけれど、「包丁はこうやって使うんだよ」と、涼子が基礎から丁寧に教えてくれる。それに応えるように夏実も精一杯、涼子から学ぼうとする。
ジャガイモを切っている途中、夏実は「いてぇ!」と小さく声を上げる。指先を包丁で切ってしまったようで、人差し指の切り傷が小さな血でにじむ。
夏実は軽くパニック状態になってしまう。「ど、どうしよう」と独り言をつぶやく。
けれども涼子は落ち着いていた。焦ることなく絆創膏をリビングから持ってくる。
涼子は丁寧に絆創膏を夏実の人差し指に巻いていく。そんな涼子の澄んだ横顔が、夏実にはまるで聖母のように見えてしまう。ああ、涼子はなんて美しい子なんだろう。
夏実は陶酔したように「ありがとう」と言葉を漏らす。
涼子は笑顔で「どういたしまして」と言う。そして二人はお互いの顔を見て笑い合う。
なんて楽しいんだろうと夏実は思う。
「なんて楽しいんだろう」と涼子は気持ちをまっすぐ言葉にする。涼子のそんな素直さが私は好きなんだと夏実は思う。昔から涼子はそうだった。私が恥ずかしくてなかなか言葉にできないことを、涼子はあっさりと言葉にしてしまう。
涼子はこんなにも良い子なのに、どうして。
どうして今の涼子には友達があまりいないのだろう。
その疑問を夏実はのどの奥にぐっと飲み込む。今はそれを持ち出すべき時ではない。
しかしそこで奇妙な間が生まれてしまう。私は何を言えば良いのだろう。それが夏実には分からなくなる。夏実がオドオドと困惑しているところで、涼子がそっと口を開く。
「私ね……」涼子の目線は包丁でにんじんの皮を剥く手元を見たままだった。
「実は中学生の時いじめられていたんだ」
そう言った涼子の横顔は表情を変えないままだった。
「そうなんだ……」それだけを言って夏実は黙ってしまう。涼子に何と声を掛ければ良いのか、夏実にはまったく分からなかった。緊張感のある時間が二人の間に流れる。
「ごめんね、急にこんな話をして。でも夏実にはなぜか言いたくなったんだ」
そう言って涼子は改めて夏実を見た。涼子の目にはわずかに涙がにじんでいた。
涼子は中学校に進学してからいじめられるようになった。
涼子は思い出していた。自分が受けてきたいじめのつらさを。そのために涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
始まりは中学一年生の夏休みが明けた時だった。
涼子は中学生になってから友達ができずにいた。小学校の時はあんなに友達がいたのに、どうしてうまくいかないのだろう。
涼子はひとりぼっちで最初の一学期を過ごしていた。
みんなと仲良くなりたいのに、なぜかみんなとの間に見えない溝を感じてしまう。自分では距離を置いているつもりはないのに、なぜか距離が生まれてしまう。
なぜだろうとずっと疑問に思っていた。
涼子は寂しかった。学校のみんなが楽しそうに過ごしているのを横目に見ながら、孤独を抱えて日々を過ごしていた。
いいなぁ、私もみんなとの輪に入りたい。あんなふうに楽しそうに笑いたい。
それなのにどうして私にはうまくできないのだろう。
ある雨の日だった。涼子はいつものように一人で下校していた。彼女は傘を持っていなかった。その日の朝はまだ晴れていたからだった。
涼子は雨の中を濡れて帰ることにした。仕方がない。友達が一人もいないから、誰かの傘に入れてもらうこともできない。
涼子は惨めな気持ちになっていた。雨に濡れることしかできない自分が惨めだった。
彼女はひそかに泣いていた。雨に紛れるからと我慢するのもやめて涙を流した。
雨に濡れて制服が肌に張り付いていた。もしかしたら下着が透けているかもしれない。
でもそんなことはどうでもいいと思った。
今の惨めな自分にはそれもお似合いなのだろうと思った。
家に帰っても誰もいなかった。両親は共働きだったから、夕方はいつも一人きりで過ごしていた。涼子は家に上がるとまっすぐ風呂に向かった。
服を脱ぐのも煩わしかった涼子は、制服の上からそのまま温かいシャワーを浴びた。
体が温まっていくのと同時に、心の嫌な緊張感もほどけていくような感覚があった。
涼子はしばらく無心になってシャワーを浴びていた。
ある種の開放感がそこにはあった。でもその開放感は憂鬱と表裏一体のものだった。
涼子は皮肉な笑顔を浮かべながら、同時に涙を流していた。
やがて夏休みになり、時間はあっという間に過ぎていった。
涼子は何もしないまま一日中ごろごろと部屋で過ごしていた。学校の憂鬱に振り回されずに一日を浪費することが、涼子にはある種の快感だった。
夏休みが終わりを迎え、長い休みでリフレッシュした涼子はひそかに考えていた。
二学期になったら今度こそ友達を作ろう。
そのために頭の中でいろんなシミュレーションもした。
しかし、それはうまくいかなかった。むしろ夏休み明けの涼子を待っていたのは、地獄のようなつらい日々だった。




