第4章 女たちの絆 ②
明里が新しく働き始めたスナックのママは、名前を齋藤恵子と言った。
恵子は明里が初めて店に来た時のことをよく覚えていた。明里は頭を深く下げて言った。
「ここで働かせてください」
恵子は最初、あまり乗り気ではなかった。店は今の人員でもそれなりに回っていたし、初めて出会った人のことはどうしても信用できないと思った。
だから恵子は面接をしてから考えることにした。
「どうしてウチで働きたいと思ったの?」恵子は単刀直入に訊いてみた。
「実は私この近くに住んでいて、いつも出かけるたびにこのお店の前を通っていたんです。それでお店のことが気になっていて、いつか来たいなぁと思っていたんです。でも私みたいな若い女性が客として行っても迷惑かもしれないと思って、それでなかなか踏ん切りがつかなかったんですが、今回、思い切って訪ねてみることにしました。そうしたらお客様もキャストさんもみんなの雰囲気が楽しそうで、何だか私が働いているキャバクラの張り詰めたような雰囲気とは全然違うなって思って。それで気がつくと「働かせてください」って頭を下げていました。もしご迷惑だったらすみません。潔く帰ります。でも、今日はここに来れてよかったと思っています。客商売に絶望していた私にとって、その楽しさや素晴らしさを思い出させてくれた気がします。本当にありがとうございます。もし、私がこのお店で働かせてもらえるなら、お客様に楽しかったと思ってもらえるように、精一杯がんばります。よろしくお願いします」
明里はそう言ってもう一度、深く頭を下げた。恵子は明里に言った。
「本来であればプライベートな話はあまり聞くべきではないのだけれど、あなたのことを何も知らないから聞かせて欲しい。どうして普通の仕事じゃなくて水商売を選んだの?」
明里は少し考えてから恵子に答えた。
「もともとキャバクラとか華やかな夜の仕事に憧れはあったんですけど、実は私シングルマザーなんです。それで子育てと両立しながら働こうと思ったら、やっぱり高収入な仕事がいいなと思いまして、それでこういった仕事を選びました。とは言っても、最近パートタイムで事務のお仕事を始めまして、必ずしもお給料の高い仕事に就く必要はなくなったんですけれど」
「なるほどね。ウチは水商売といっても場末のスナックだから、高い給料はあげられないけれど、それでも良いというのなら考えても良いわ。ちなみにお子さんは今何歳なの?」
「今は三歳です。子育てはとても大変ですが、それでも子供が成長していくのを見守るのは楽しいです。子供はとても可愛くて、私の生き甲斐になっています」
「そう。それは良いわね。働きながら子供を育てるのは大変でしょう。働いている間は、子供の面倒はどうしているの?」
「昼間は保育所に預けているんですが、仕事で家を空けないといけない時は先輩ママさんたちが手伝ってくれるんです。本当にありがたいです。とは言っても、今までは昼間でも働けるキャバクラにいたので、そこまでお手を煩わせることはなかったんですが」
「そうなの、確かにウチは昼間からやっているスナックだから、あなたにはちょうど良いのかもしれないわね。週二日からの勤務で良いかしら?」
「はい! よろしくお願いします」
恵子は明里を雇うことにした。彼女に対してある種の好感を抱いたからだった。
それがどういった理由の好感なのかは恵子にもよく分からなかった。しかし彼女の若さと真っ直ぐさは、お店に対して良い影響を与えてくれるだろうという直感があった。
そして明里は恵子のスナックで働き始めた。週二日、火曜日と金曜日に出勤してもらうことにした。
明里という若いスタッフが加入したことを知って、彼女が働いている日だけ客の入りが多くなった。それでも客層が大きく変わることはなかった。従来のキャストが客への対応が優秀であり、明里に人気が集中することはなかったからだった。
明里がスナックで働く日は子供をお店に連れてくるようになった。そしてお店の二階で遊んでいてもらいながら(明里の子供は絵本を読むのが好きだった)明里は働いた。子供の様子はお店のスタッフが定期的に見ていた。
やがて明里は日曜日にもお店で働くようになった。
明里はこのスナックが好きになっていた。以前のキャバクラと比べて忙しいのは変わりなかったけれど、のびのびと楽しく働くことができた。
お店は良いお客さんが多くて(恵子が客の質については目を光らせていた)それも明里が楽しく働けた理由だった。
明里は次第に、今までの苦労や現在の悩みを恵子に打ち明けるようになった。恵子を前にすると自分の話を聞いてもらいたくなるような、不思議な引力があった。
自分が高校生の頃に妊娠したこと。相手の男には逃げられたこと。たった一人で子育てを頑張ってきたこと。父親は幼い頃からいないこと。母親は自分の恋愛ばかりで娘を蔑ろにしてきたこと。母親とはほとんど絶縁状態にあること。
それらを明里は折に触れて恵子に話すようになった。それを恵子は親身になって聞いた。話を聞けば聞くほど、今まで頑張ってきた明里に親愛の情を持つようになった。年の離れた友人となり、あるいは仲の良い親子のような間柄になった。
女がたった一人で頑張って生きてきた。それも前向きにひたむきに。そんな状況に恵子は弱かった。どうしても共感を抱いてしまう。自分もそうして生きてきたからだった。
恵子がスナックを開いたのは約二十年前、彼女が四十歳になる頃だった。
恵子に家族はおらず、それまでは町工場でパートの仕事をしながら、小さなスナックで働いていた。恵子は面接をしながら、自分の人生を思い返さずにはいられなかった。
子供の頃の恵子は勝ち気な性格だった。他人と群れることを好まず、自分の意思を貫くことに重きを置いていた。
だから恵子は、小学生の頃から友達が少なかった。たった一人でも自分がやりたいことをやる。そうして恵子は生きてきた。あるいは、そのようにしか生きられなかった。
中学・高校は女子校に通っていた。恵子は中学生の頃から次第に、他人とも仲良くやることを学ぶようになった。周りと同じように友達を作り、楽しんでいるふりをした。
実際には周りのことを未熟な人間としか見られなかったけれど。
それでも私が自分のやりたいように生きるには、周囲との軋轢が少ない方がいい。そのことを恵子は、家族との軋轢を通じて学んでいた。
恵子は世間で常識と呼ばれるものを常に疑い、自分の意見を持つことを大切にしていた。一方で恵子の家族(すなわち両親や兄弟)は、世間の常識を(たとえそれがおかしいものでも)そのまま自分たちの考えだと信じて疑わなかった。そこに齟齬が生まれた。
恵子は家族と対立してばかりいた。
あるいは世間の常識と対立してしまう自分に対して、いつも世間の側につく家族のことが許せなかった。
恵子はいつも家族と言い争いになった。時には、世間と同じように誰かを非難する家族に腹が立って、少数派にいるその誰かを必死に弁護した。
それが家族には理解できず、ますます家族との溝が深まることになった。
やがて恵子は学んだ。家族と対立してばかりいては、自分の意思を貫くことがますます難しくなってくる。そのパラドックスを知った時には、すでに家族との仲を修復することは難しかったけれど、せめて学校や社会ではうまくやることにしよう。
しかしそれを実践するのは非常に難しかった。
頭では分かっているのに、おかしな常識にしがみつく他者のことを愚かだと思い、辛辣に意見してしまう。その悪癖は治すことができず、結局のところ恵子は友達を失い、一人になってしまうのだった。
高校生の頃の恵子はとても孤独だった。いつも一人で過ごすようになっていた。
その頃には、恵子の悪評は校内でも定まってしまい、誰も彼女と仲良くしようとは思わなくなっていた。それでも恵子はそのことで傷つきたくなかった。
恵子は孤独に負けたくなかった。だから彼女は強く生きることにした。
それが見せかけの強さだとしても構わない。そこで負けてしまったら、いよいよ惨めになってしまう。私はたった一人でも楽しく生きてやるのだ。
そして恵子は、孤独のまま高校を卒業した。
恵子は大学に進学せず、町工場で働き始めた。恵子の学力があれば大学への進学も可能だったが、親がそれを許さなかった。
勉強なんかしてないで、さっさと結婚相手を見つけなさい。それが親の方針だった。
恵子は反発心があったが、自身も大学に進学する意義を見出せなかった恵子は、それに従うことにした。でも、親が言うようにさっさと結婚するつもりはなかった。
私は一人で自由に生きてやる。それが信条となっていた恵子は、早く親元を離れて自立を求めた。
結婚は自由の対極にあるものと思っていた恵子は、当時からすでに独り身を貫くつもりでいた。孤独の寂しさよりも自由の方が恵子にとっては大きかった。
親元を離れて町工場で働くようになってから数年が経ち、やがて恵子は、新しい世界を望むようになった。
町工場で働きながら、一人で自由気ままに生きていくのは悪くなかったけれど、自分の人生にスパイスが足りないと感じるようになっていた。
ある程度の刺激があってこそ人は輝けるのではないか。
そう感じるようになっていた恵子は、夜の世界で働くことにした。初めはキャバクラで働き始めたけれど、何よりも自由を求める恵子にとって、競争を元にした人間関係は次第に煩わしさを感じるようになった。
小さくてもいいから自由に働ける場所がいい。そうして恵子は一軒のスナックにたどり着いた。そこは開店したばかりのスナックだった。
新しいスナックを一から盛り上げる。そのチャレンジが恵子には魅力的に思えた。
新しいスナックで働くことは恵子にとって充実したものとなった。やがて町工場を退職して、スナック一本で働くようになった。
魅力的なキャストと共に、魅力的なお客さんにサービスを提供する。
もちろん中には良くないお客さんもいたけれど、そういう人たちのあしらい方も含めて、スナックのキャストとしてのプロフェッショナリズムが恵子を充実させていた。
結局そのスナックでは十年間ほど働いた。
四十代を間近に控える中で、次のステージに行かなければならないと恵子は感じていた。歳をとっていく中で、いつまでも一キャストとして働いていくには限界がある。
そこで恵子が決心したのが、自分の店を持つということだった。
かねてから自分のことを、人に使われるよりも自分の城を持つ方が向いていると感じていた恵子は、それを実行することにしたのだった。
恵子が店を持とうと決心したのは三十代の半ばだった。そこから数年間を勉強と計画に費やした恵子は、四十歳の時にようやく念願のスナック開店を叶えたのだった。
それから二十年近くをスナックのママとして過ごしてきた。振り返ると自分の人生は、目の前にいる明里と重なる所があるかもしれない。
そこに明里への共感を抱いた恵子は、明里を雇うことに決めたのだった。
明里はそうして恵子のスナックで働き始めた。そして気がつくと明里は、二十代の後半を迎えていた。明里の娘は小学生になっていた。
それまで恵子のスナックで、あるいは教団の事務仕事をこなしながら、必死に頑張ってきた明里は、子供が手を離れてきたことで時折、感慨に浸るようになっていた。
そんな明里に新しい転機が訪れることになる。




