第4章 女たちの絆 ①
三浦明里は苦しかった。彼女は二十歳のシングルマザーだった。
明里は早朝の路地裏を歩いていた。仕事からの帰り道だった。路地裏はゴミが散乱して雑草が生い茂る薄汚い道だった。明里にはそう見えた。
そんな路地裏が、明里には今の自分と重なって見えた。自分はなんて薄汚いのだろう。そして管理されず放置されている路地裏と同じように、自分はなんて孤独なのだろう。
明里はいつも疲労困憊だった。幼い子供の育児に追われながら、空いた時間は水商売で働いた。彼女は全てを一人でこなした。自分のために休む時間はほとんどなかった。
孤独が明里を追い詰めていた。明里はいつも孤独を感じていた。満身創痍の体を抱えながら、誰に寄りかかることもできなかった。お願い、誰か私を助けて。私のことを支えて欲しい。それが彼女の心の叫びとなっていた。
子供の父親は妊娠発覚の後、消息不明になった。明里が高校三年生の時だった。相手は大学生だった。有名な国立大学に通っていた。そのように彼は言っていた。
彼と付き合うことが一種のステータスのように感じられた。
自分だけ周囲よりも大人になったような気がして嬉しかった。
彼とはいつか結婚したい。明里はそう思っていた。だから彼の求めに応じて、避妊せずに性交渉を持つことにも、ためらいはなかった。
そして明里は妊娠した。とても幸せなことだと明里は思った。でも、彼に妊娠のことを伝えると、彼は途端に冷たくなった。そんなつもりはなかった。すぐに子供を堕ろせ。
明里は絶望した。彼とは同じ未来を見ているものだと信じていた。
すぐに彼とは連絡が取れなくなった。彼が通っているという大学に行ったが、在籍している事実はなかった。明里は荒れ狂う大海原にたった一人で放り出されたような気持ちになった。
しかし明里は子供を出産することを決意した。すでに明里は子供への愛情を持つようになっていた。
明里に父親はいなかったけれど、唯一の家族である母親には反対された。「恥知らず」とまで言われた。でも明里の意思は固かった。
明里は高校を中退した後、しばらくして子供を出産した。
何としてもこの子と二人で生きていく。その決意だけが明里を突き動かしていた。
明里は高校生の頃、将来のためにと貯金していたアルバイト代を切り崩しながら、あるいは新しく借金をして、一人で赤ん坊の子育てに励んだ。
試行錯誤の連続で苦しい思いを何度もしたけれど、それでも明里の意地が子育ての奮闘を支えていた。絶対にこの子と幸せになってやる。明里は必死に子育てをした。
やがて子供が乳児期を過ぎると、明里は働くようになった。貯金はとうに尽きていたし、借金を返さなければならなかった。明里が選んだ仕事はキャバクラだった。急いで借金を返したかったし、華やかな世界には憧れもあった。
しかし甘い世界ではなかった。明里は客とのトラブルや同僚との争いに疲弊するようになっていく。そこに育児の疲労が重なり、彼女は次第に追い詰められるようになった。
それでも明里は誰かに頼ることができなかった。彼女には頼ることのできる家族や友人がいなかった。妊娠が発覚して高校を中退してから、友人との関わりはなくなった。家族との関係はもともと上手くいっていなかった。
明里には幸せな家族という記憶はなかった。物語の中だけの、架空の出来事だと思っていた。彼女の母親もシングルマザーだった。幼い頃に離婚したという父親の記憶は、彼女には一切なかった。
明里にとっての母親は、男を取り替えてばかりいる、落ち着きのない下品な女だった。明里の母親にとっては自分の恋愛が最優先だった。そのために邪魔な娘は蔑ろにしているところがあった。母親から愛情を注がれた記憶は、明里には一切なかった。
「お前がいるから私の恋愛はうまくいかないのよ」母親からは何度もそう罵倒された。
明里から見れば、母親の恋愛が上手くいかないのは、彼女自身の人格に問題があるからだとしか思えなかった。
母親はとても嫉妬深く、そして現実離れした完璧な愛を実感できなければ、すぐに相手に不満を当たり散らすところがあった。こんな女が恋人だと、相手の男性は疲弊して当然だろう。明里はひそかにそう思っていた。
明里は今までの人生を一人で生きてきたのも同然だった。母親はろくに家には帰らず、最低限の金銭だけを家に残して、後はずっと男を求めて遊んでいた。
明里は最低限の家計をやりくりしながら、家事を全て自分でこなした。母親からの金銭だけでは学費が足りず、彼女は高校生になると毎日アルバイトをこなした。
それである程度は生活に余裕が生まれたけれど、時間を犠牲にして金銭的な余裕を得たとしても、失った青春を取り戻すことはできなかった。
彼女には青春を謳歌する時間など初めからなかった。それで明里は、いつも友人たちのことを羨ましいと思っていた。
そんな時に彼と出会った。彼なら今の惨めな生活から救い出してくれるかもしれない。
明里は淡い期待を持った。でもその期待はあっけなく裏切られることになった。彼女は絶望した。
でも絶望に落ちたままの訳にはいかなかった。彼女には新しい命への責任感があった。絶対にこの子のことは幸せにしてみせる。
それがある意味では母親や世間への復讐だった。私はあんたたちがいなくても、この子と一緒に幸せになれる。それを見せつけることが彼女の願望でもあった。
しかし物事はそんなに簡単ではなかった。
子供が生まれた最初の年はがむしゃらに走り抜けることができた。しかし子育てが二年目、三年目になるにつれて、威勢と意地だけでは子育てを続けることが難しくなった。
疲弊した明里は、次第に追い詰められていった。
そんな時、明里は声をかけられた。声をかけたのは明里が勤めているキャバクラの先輩ホステスだった。
競争による殺伐とした雰囲気が蔓延している職場にいて、ミクさんというその先輩だけが明里にとって心を許せる唯一の相手だった。
明里は職場で疲弊していた。客や同僚に心ない言葉を浴びせられ、舞台裏で泣いていることが常となっていた明里に、唯一優しく声をかけてくれたのがミクさんだった。
明里はミクさんによく悩みを相談するようになった。
仕事のつらさや育児の大変さについて、よくミクさんに愚痴をこぼした。そんな明里の言葉をミクさんは親身になって聞いてくれた。
いつしか明里にとってミクさんは心の支えになっていた。
そんな中である日、明里はミクさんに「ある会」に招待された。ミクさんからは「育児の支え合いの会」だと聞いていた。
最初は、新しく人間関係を構築することの煩わしさを感じていた。
けれども、ミクさんが熱心に誘ってきたのと、実際に育児への孤独を感じていたこともあって、結局はその会に一度だけ参加してみることにした。
いざ参加してみると、明里は誘ってくれたミクさんに感謝することになった。会の参加者たちは皆「いい人」だった。
明里の今までの苦労を親身になって聞いてくれた。時には適切な助言をくれた。それは明里にとって肩の荷を下ろせたような良い経験となった。
十人ほどの参加者たちは皆がシングルマザーだった。年齢は二十代から五十代までバラバラだった。
ほとんどは明里より年上だったが、中には一人だけ明里より年下の参加者もいた。彼女たちは育児の大変さを語り合った。お互いに共感して、励まし合った。
その集まりは、明里が欲してやまないものを与えてくれるように思えた。自分は育児や生活を支え合うような仲間が欲しかったのだ。彼女はそのことを実感した。
明里はその会に入会することにした。そして実際に、家事や育児を支えてもらうことになった。
仕事が忙しくて家事に時間が取れない時は、会の先輩に掃除や洗濯を代わってもらった。そして明里は育児に専念することができた。
育児には発見が多かった。多くの時間を子供と一緒に遊んだり、寝かしつけたりの時間に費やすことができた。
そうして多くの時間を接する中で、子供の成長を実感することも多かった。
明里には一つだけ子供について気がかりなことがあった。言葉を話さないことだった。
健診では、人が話している言葉は聞こえているみたいだから、もうしばらく様子を見ましょうと言われた。
それで多少は安心したけれど、二歳になっても三歳になっても言葉を話さない時には、さすがに平常心ではいられなかった。何か重大な病気が見落とされているのではないか。明里は二度目の健診で詳しく医師に訊いてみた。
医師は言った。言葉は聞こえているから難聴ではないし、こちらの話すことを理解しているみたいだから失語症という訳でもない。まだこの年齢では断定することができないが、考えられる可能性としては発達障害だろうと。
明里は驚かなかった。その答えをどこかで予期していたからだ。自分なりに本を読んで調べてみて、もしかしたら発達障害なのかもしれないと思っていた。だから、医師から他のどの病気でもなく発達障害の可能性を言われた時、むしろ安心したところがあった。
良かった、命に関わるような病気ではなくて。会の先輩の中に発達障害の子供を育てている人がいたので、発達障害であれば心の準備ができるし、いろいろと教えてもらうこともできる。他の病気よりはなんとか対処できるだろうと明里は考えた。
将来、子供に手がかからなくなると、自分が他の母親を支えることもできる。それが会の本質だった。育児の支え合いの互助会。明里は素晴らしい会だと思った。実際、明里はこの先の育児で何度も互助会の母親たちに支えられ、感謝することになった。
そして今度は自分が他の母親を支えるのだ。自分がしてもらったように。
ある時、明里は会のメンバーの共通点を知った。彼女たちはとある宗教の信者だった。
その事実をミクさんに打ち明けられた。あなたが信者になる必要はないけれど、みんなが信者だということは知っておいてほしい。
明里は驚いた。でもそこに抵抗感は不思議となかった。会のメンバーが「いい人」たちだと知っていたからだ。
人が何を信じようが自由だと思ったし、こんなに「いい人」たちが入っている宗教なら素晴らしい宗教なのだろうと考えた。
やがて明里はキャバクラを辞めて、教団の事務仕事を手伝うようになった。週に二日の事務仕事では食べていけないから、小さなスナックでも働くようになった。
競争の激しいキャバクラの世界と違って、新しい職場では穏やかに仕事ができるようになった。教団の事務仕事を手伝うのと同時に、明里は教団の信者になった。
とはいえ明里は、宗教を信じている訳ではなかった。自分に良くしてくれる「いい人」たちの仲間になりたい。それだけが教団に入った理由だった。後から思えば自分の居場所が欲しかったのだろう。当時を振り返った明里はそう考えた。
ただし、新しく働き始めたスナックは、教団とは全く関係のない職場だった。明里の家の近所にあるスナックで、以前から興味を持っていたところだった。
一度だけ客としてスナックに行った明里は、店の雰囲気をすっかり気に入ってしまい、その場で「働かせてほしい」とママにお願いした。明里がキャバクラを辞めたのは、他に魅力的な職場を見つけたからだというのも大きかった。




