第3章 孤独と温もり ③
夕方になり、夏実は散歩に出かける。颯汰を家の近くまで送ったその帰りだった。昨日のことがあって家の玄関まで送ることは諦めたし、そのことを颯汰は賛成してくれた。
「親に合わせたくなかったっていう俺の気持ち、今ならよく分かるだろう?」
「うん。でもごめんね。それにしても失礼なことをしちゃったなって思うよ」
「気にすんな。俺は夏実がそれでも一緒に遊んでくれたことが嬉しいんだ」
「私はただ颯汰と一緒にいることが楽しいだけだよ」
「ありがとう」と颯汰が言う。
「こちらこそありがとう」と夏実も言う。
そして二人は手を振って別れる。
「じゃあね! いつでも遊びに来なよ」
「おう、毎日でも行っちゃうからな!」
「もちろん! 待っているからね」
颯汰の家の近くからの帰り道、夏実は散歩をしながら寄り道をすることになる。昨日もこれくらいの時間だったなと確認して、夏実は涼子とおしゃべりした河川敷に向かう。
夕方になり、風が涼しくなっていた。その心地よい風を感じながら、夏実はのんびりとしたペースで歩いていく。
東京ではこうして落ち着いた気持ちになれることはほとんどなかった。毎日を嫌な不安と緊張の中で過ごしていたように思う。そして疲れ果てて憂鬱になるのだった。
でも今は違う。私の心は今とても自由なんだと夏実は感じる。この解放感と心地の良さはおばあちゃんが暮らしているこの町でしか感じられないものだ。
夏実は大きく息を吸って新鮮な空気のおいしさを味わう。今の私はたぶん幸せなのだ。それを忘れてはいけないと夏実は思う。
やがて夏実は昨日の河川敷にたどり着く。そこには涼子が座っている。
夏実はその姿を目にしてつい頬がゆるむ。あぁ、やっぱり涼子は会いに来てくれたのだ。
夏実はしばらくその横顔をうっとりと眺めている。
こうしてみるとすごく綺麗な子だなと夏実は思う。
「その耳飾り、綺麗だね」そう言って夏実は涼子の隣に座る。
涼子はいきなり話しかけられたことに驚いて、口を開けながら夏実を見ている。
「来てくれてありがとう」と夏実は言う。「本当にまた会えるのかなって不安だったけど、涼子がいてくれて嬉しかった。やった、また会うことができたんだと思って」
「こちらこそだよ」と涼子が笑顔を見せる。「来てくれてありがとう。すごく嬉しかった。耳飾りも褒めてくれてありがとう。夏実にまた会うかもと思ったら、おしゃれにしなきゃと思ってね」
「昨日もおしゃれだったけど、今日の涼子は一段とかわいいね。その服装も化粧もすごくおしゃれだなって思うよ」
「ありがとう。そう言ってもらえるとすごく嬉しい。今日こうしてまた夏実に会えたことが私は本当に嬉しいんだよ。私の方こそ、夏実は来てくれないんじゃないかって、ずっと不安だったんだ」涼子は目を潤ませながら言う。
「そうなの? また会いたいって言い出したのは、私の方だったのに」
「でもね、夏実が会いたいって言ってくれた以上に、私の方が会いたかったと思うよ」
そう言われて、夏実は顔が赤くなる。涼子は前を向いて言う。
「だって久しぶりに友達と一緒にいられるから。私ね、ずっと友達がいなかったの」
夏実はそこで驚いてしまう。小学生の時はあんなに友達が多かったのに。
「中学生になってから周囲とうまく馴染めなくなっちゃって。高校生になってもやっぱりうまくいかなくて。それで大学に進むのもやめちゃった」涼子は作り笑顔で言った。
夏実は小学生の頃を思い出す。
同じクラスだった時、涼子はいつも友達に囲まれていた。
本当はもっと一緒にいたかったけれど、友達の多い涼子に遠慮しているところがあった。下校になれば一緒に帰れることを思って、放課後までは一人で過ごすことも多かった。
それなのに中学生になってからは友達がいなかったなんて。
涼子の寂しさを想像すると、夏実は胸が苦しくなった。私も今まで孤独を経験してきたからこそ、そのつらさはよく分かる。夏実はひそかに涙があふれそうになった。
どうして涼子は友達ができなくなったのだろう。夏実はつい考えてしまう。でもそれは考えても仕方のないことだと思う。おそらく私が深入りしてはいけないことだ。
涼子はきっと周囲とうまく馴染めなくなったことでたくさん傷ついてきたはずだ。そのあたりの事情に踏み込んでも、傷口を大きくするだけで余計に涼子を苦しめることになる。
だから涼子の過去には立ち入らず、今はただそばにいるのが良いのだろう。
私も今までたくさん人間関係で傷ついてきたからこそ、何となくだけれど涼子が求めていることが分かる気がする。
彼女は傷口を切開してほしいわけじゃない。優しくガーゼで保護してほしいのだ。母親がそっと子供の傷をいたわるように。
だから夏実は何も言わずに涼子のそばに座っていた。彼女と肩を寄せ合いながら。
「ありがとう。何も言わないでくれて」涼子は涙に声を震わせてそう言った。
夏実はただ静かに涼子の左手に自分の右手を重ねた。
不甲斐ないけれど今の涼子には私がいる。そのことを知っていてほしいと夏実は思った。
「もし良ければなんだけどさ」夏実は思いきって提案する。「今度、私の家に来ない?」
「良いの?」と涼子は目を輝かせる。
「もちろん」と夏実はホッとして答える。
「じゃあさ、さっそく今から行っても良いかな?」涼子は遠慮がちに言う。
「今から? 私は良いよ。でも、おばあちゃんに相談してみるね」
夏実は祖母の秋恵に電話をかける。携帯電話を持ってきて良かったと思う。
「もしもし? おばあちゃん?」と夏実は言う。
「なぁに? 夏実が電話なんて珍しい。何かあったの?」
「実はさ、ちょっとお願いがあって。今から家に友達を連れて行って良い?」
「良いけど、夏実こんなところに友達なんていたの?」
「うん。たまたま再会したんだ。私も最初はびっくりしちゃった」
「夏実さえ良いなら、ぜひ連れていらっしゃい。私は歓迎するわ」
「ありがとう。おばあちゃん」そう言って夏実は電話を切る。
「おばあちゃん、来ても良いって言ってくれた。今から一緒に私の家に行こう」
「ありがとう夏実。私とっても嬉しいよ。友達の家に行くなんて何年ぶりなんだろう? 私なんだかワクワクしてきた」
「私も。一緒に楽しもう」夏実がそう言うと、涼子は大きく頷いた。
二人が家に着くと、祖母の秋恵が玄関で出迎えてくれる。
「ようこそ、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」と秋恵は笑顔で言う。
「ありがとうございます。夏実さんの友人の佐藤涼子と言います。よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくて良いのよ。自分の家だと思ってゆっくりしてね」
そう言って秋恵は涼子を家の中に迎え入れる。夏実はその後について家に上がる。
「でも本当にびっくりしたわ。夏実がお友達を連れてくるなんて。あまり友達がいない子だと思っていたから」
「ちょっと、あんまりそう言うことペラペラと喋らないでよ」
夏実は恥ずかしそうに言う。でもこれで自分が涼子の仲間だと伝わったかもしれない。
「そうなんですか? でも、夏実はとても良いお友達です」と涼子は言う。
二人は手を洗った後、リビングのテーブルに腰を下ろす。秋恵が言う。
「これから夕食の準備をしないと。二人はゆっくりしていてね」
「ねえ、おばあちゃん。今日は私が作ってもいい? 涼子をもてなしたい気持ちなの」
「そんな、申し訳ないよ。むしろお邪魔している私が作ってあげたいくらいだよ」
涼子が言う。秋恵はそんな二人を見て「それならば」と提案する。
「二人で一緒に夕ごはんを作ればいいんじゃない。その方が二人も楽しいでしょう?」
「じゃあ、そうするか」と夏実が言う。
「うん、何だかとても楽しそう」と涼子が応える。
そして二人は料理を始める。夏実はおぼつかない手つきで野菜を切っていく。
「ごめんね、下手くそで。実はあんまり料理をしたことがないんだよね」
「ううん、そんなことないよ。それでも作ってくれることが私は嬉しい」
そう言って涼子は夏実の隣で、滑らかな手つきで野菜を切っていく。
「上手だね、涼子。すごいなぁ」と夏実はつい感心してしまう。
「ありがとう。私も最近になって料理を始めたばかりだし、夏実もすぐに上手になるよ」
「そうかなぁ。だといいんだけど。でも、私ってかなり不器用だから」
「じゃあ、これから毎日、一緒に料理する? そうすれば一緒に上達できるし」
涼子はためらいがちにそう提案してみる。夏実はとても嬉しいと思う。
「いいの? 本気にしちゃうよ? 毎日、涼子と会っちゃうけど」
「うん、本当にそうしよう! 私、それだけで毎日が楽しくなっちゃうよ!」
二人はこうして毎日会う約束をする。小学生の頃、毎日一緒に帰ろうねと約束した時のように。夏実は毎日が一気に色彩で満たされていくような、幸せな気持ちになっていた。
夏実は二人で切った野菜を煮込み、ポトフを作っていく。美味しくなるようにと気持ちを込めてゆっくりとかき混ぜる。
一方の涼子はハンバーグを作る。ひき肉をハンバーグの形にするところから作っていく。
涼子がひき肉をこねたり叩いたりしている様子を見て、「私もちょっとやっていい?」と夏実は言う。
「いいよ。やり方を教えてあげるね」
涼子はそう言ってハンバーグの作り方を指南する。ポトフを煮込むのは一旦涼子に交代してもらい、夏実は教えてもらった通りにハンバーグを作っていく。
でも、夏実は言われた通りに上手くハンバーグを作ることができない。なぜか歪な形の美味しそうじゃない肉の塊になってしまう。
「焼いたら美味しくなると思うよ。大丈夫!」と涼子はフォローしてくれるけど、夏実は自分の不甲斐なさに落ち込んでしまう。
涼子がハンバーグをフライパンで焼いていく。ジューという美味しそうな音が聞こえる。
夏実は煮込んだポトフをお椀に入れていく。温かそうな湯気が立っている。
夏実は美味しそうなポトフを見て、ついお腹の音が鳴ってしまう。それを聞いた涼子が楽しそうにクスクスと笑う。夏実はちょっと恥ずかしくなって顔を赤くする。
夏実は出来上がったポトフを先にリビングのテーブルに並べていく。それが終わると、涼子は焼いたハンバーグをお皿に移していく。美味しそうな匂いが台所に充満する。
綺麗に焼き上がったハンバーグを見て、夏実は「やっぱり涼子はすごいな」と感心してしまう。そしてその思いを言葉にする。
涼子は「そんなことないよ」と顔を赤くしながら言う。
恥ずかしがっている涼子の顔がとても可愛いと夏実は思う。
やっぱり、涼子とはこの先もずっと一緒にいたいな。
そんな気持ちが夏実の中に芽生えていく。
夏実と涼子は、秋恵と共に作った晩ごはんを食べる。野菜を添えたハンバーグと温かいポトフと白いご飯が今日の晩ごはんだった。
涼子が作ったハンバーグはとても美味しくて、夏実はあっという間に平らげてしまう。ポトフも我ながらとても美味しくて、夏実はすぐに飲み干してしまう。
「二人とも食べるの早いわねぇ」と秋恵が感心する。
「だって美味しいんだもん」と二人は口を揃えて言う。不意に言葉が揃ったことで、二人はまたクスクスと笑う。
食事を終えると、二人はおしゃべりに花を咲かせる。もちろん小学生の時の思い出話が中心になる。そして楽しい時間が終わると、涼子は帰路に着くことになった。
夏実は夜道を歩きながら空を見上げる。たくさんの星が輝いて見える。
綺麗だなと夏実は思う。「綺麗だね」と隣を歩いている涼子が言う。
「うん、綺麗。星空を見上げていると、空に昇ってなんだか吸い込まれていきそうな気がするんだよね。ちっぽけな自分が世界と一体になるような不思議な感覚」
「なんだか分かる気がするよ。私も夜空を見上げるのが好きなんだ。自分の小さな悩みが消えていって、世界って綺麗なんだなって再確認できるんだよね」
二人はそれから立ち止まり、静かに星空を見上げている。こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのにと夏実は思う。そして心が苦しい時はこれから空を見上げようと思う。
夏実が空を見上げていると、左手に何かが触れる感覚がある。
その何かは夏実の左手をそっと掴む。それは滑らかで冷たい何かだった。
夏実はそこで理解する。涼子が自分の手を握っているのだと。
涼子の右手は儚いけれど、確かに存在していると夏実は思う。
夏実は涼子の手をそっと握り返す。すると今度は涼子の手が安心したように夏実の手をしっかりと握る。夏実もそれに合わせてしっかりと涼子の手を握り返す。
二人は手を繋ぎ合って、相手の存在を感じながら星空を見上げている。
「ねぇ」と夜空を見上げたままの涼子が言う。
「なに?」と視線を変えずに夏実は訊く。
「いてくれてありがとう」と涼子が言う。
「こちらこそだよ」と夏実は応える。
「明日は私が涼子に会いにいくね」と涼子を見た夏実が言う。
「うん、お家で待っているね」と夏実を見た涼子は嬉しそうに応える。
「楽しみにしてる」と夏実は続ける。
「私も!」と涼子が言う。
幸せな時間が流れていると夏実は思う。この幸せを失うことの恐怖も感じる。
もし、私が今までの人生で経験してきたように、涼子が私から去ってしまったら。私はまたひとりぼっちになってしまう。そんなことには絶対になりたくない。
だからこそ、私は涼子のことを大切にしたい。涼子との関係を大切に築いていきたい。
夏実は心の中でそう決意していた。そこで涼子がためらいがちに言う。
「これからもずっと仲良くしてくれると嬉しいな」
「もちろん。私の方こそよろしくね」夏実は約束をするようにそう応える。
夏実は改めて涼子の右手を強く握る。絶対に離さないと伝えるように。
涼子も夏実の左手を強く握り返す。私こそ大切にすると伝えるように。
そして二人はそれぞれの家路につく。胸の中に温かいものを抱きながら。




