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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第97話 凍傷ではなく、心の病

 携帯食の生産ラインが稼働を始めてから、十日が過ぎた。

 砦の空気は、目に見えて変わり始めていた。

 自分たちの手で作り出したものが、確かな現金収入になる。その事実は、兵士たちの濁った瞳に、わずかながら、しかし確かな光を取り戻させていた。

 作業に加わる兵士の数は、日ごとに増えていった。彼らは、密輸組織との裏取引で得られる、後ろめたい慰めよりも、自分たちの労働で得る、正当な報酬の方に、より大きな価値を見出し始めていたのだ。

 これまで会話もなかった兵士たちが、作業台を囲んで、冗談を言い合う姿が見られるようになった。料理長が、若い兵士に、野菜の切り方を怒鳴りながら教え、その若い兵士が、補給担当官に、帳簿の付け方を教わる。

 小さな経済圏は、小さな共同体コミュニティを、この凍てついた砦の中に、生み出しつつあった。

 このまま、少しずつでも、良い方向へ向かうはずだ。

 私は、そう信じ始めていた。

 その矢先に、最初の異変は、起こった。

 一人の兵士が、持ち場である見張り塔の上で、動けなくなっているのが発見されたのだ。

 彼の名は、コルビン。三十代半ばの、口数の少ない、しかし、実直な兵士だった。

 私は、知らせを受けて、すぐに、砦の医務室へと駆けつけた。

 医務室の簡素な寝台に横たわるコルビンの顔は、土気色をしていた。同行していた軍医のダニエルが、彼の体を診察している。

 「どうなのですか、ダニエル先生」

 「……奇妙だ」

 ダニエルは、眉間に深い皺を寄せ、首を捻った。

 「外傷はない。熱もない。だが、見てください、奥様」

 彼が、コルビンの手首を覆っていた毛布をめくると、私は、息を飲んだ。

 その手は、まるで死人のように、血の気を失い、白蝋のような色をしていた。私がそっと触れると、氷のように冷たい。

 「まるで、重度の凍傷のようです。しかし、彼は、適切な防寒具を身に着けていた。今日の気温で、これほどの凍傷になるなど、あり得ない」

 コルビンは、虚ろな目で、天井の一点を見つめているだけだった。呼びかけにも、ほとんど反応しない。

 「何か、食べたものは?」

 「他の兵士と、全く同じものです。毒物とは考えにくい」

 ダニエルは、あらゆる可能性を検討したが、どれも、この異常な症状を説明するには至らなかった。

 そして、その翌日。

 二人目の患者が出た。今度は、補給部隊に所属する、別の兵士だった。症状は、コルビンと、全く同じ。手足の末端から、急速に体温と感覚が失われ、深い無気力状態に陥ってしまうのだ。

 三人目、四人目と、患者は、日に日に増えていった。

 砦は、目に見えない疫病が蔓延したかのような、重苦しい不安と恐怖に包まれた。兵士たちは、次は自分の番ではないかと、互いに疑心暗鬼の目を向け合うようになった。

 せっかく、灯り始めた希望の光が、今、まさに、消えかかっていた。



 その夜、ダニエルが、深刻な顔で、私の部屋を訪ねてきた。

 彼は、何枚もの羊皮紙を、机の上に広げた。それは、彼が、この数日間で書き留めた、患者たちの、詳細な診察記録だった。

 「奥様。私は、一つの仮説に、たどり着きました」

 ダニエルは、疲れた声で、そう切り出した。

 「この病は、当初、私が考えていたような、肉体的なものではないのかもしれない。寒冷毒でも、未知の病原体でもない。これは……」

 彼は、一度、言葉を切ると、意を決したように、続けた。

 「これは、魂の病です。私は、これを、『心の凍傷』と、名付けました」

 心の、凍傷。

 その言葉の響きに、私は、背筋に、冷たいものが走るのを感じた。

 「患者たちには、いくつかの共通点があります。第一に、彼らは皆、この砦での勤務が、五年以上に及ぶ、古参兵であること。第二に、彼らのほとんどが、先日の雪崩で、我々が見捨てざるを得なかった、あの部隊の、元同僚や、親しい友人だったということです」

 ダニエルの言葉が、私の胸に、重く突き刺さる。

 「長年にわたる、過酷な環境での絶望感。そして、仲間を見捨ててしまったことへの、深い罪悪感。そういった、極度の精神的ストレスが、彼らの内にある、生命力の源泉、すなわち、魔力の循環を、著しく低下させているのではないか。そして、その結果として、肉体の末端から、生命活動そのものが、凍り付いていく……。それが、私の立てた仮説です」

 私は、ダニエルの言葉を聞きながら、ある感覚を、思い出していた。

 実家で、異母妹のセシリアに、一方的に魔力を吸い取られていた、あの頃の感覚。

 体の芯から、じわじわと、温もりと、生きる気力そのものを、奪われていく、あの、冷たい喪失感。

 兵士たちの症状は、それに、酷似していた。

 彼らは、誰かに魔力を奪われているわけではない。彼ら自身の心が、生きることを、拒絶しているのだ。

 「……治療法は、あるのですか?」

 私の問いに、ダニエルは、力なく、首を横に振った。

 「分かりません。薬は、効かない。通常の温熱療法も、効果は、一時的なものでしかない。彼らの心そのものを、温めない限り……」

 その時、私は、はっきりと、理解した。

 これが、この辺境の地で、私が、本当に、向き合うべき、最後の課題なのだと。

 私は、アレスに言われた言葉を、思い出していた。

 『君は、辺境に「完成品」を与えようとしている。だが、彼らに必要なのは、君がいなくても自分たちで作り続けられる「未完成の技術」ではないのか?』

 そうだ。私が、彼らに、温かい食事を与え、治療を施すのではない。

 それでは、何も、解決しない。私が、この地を去れば、また、同じことが繰り返されるだけだ。

 彼らが、自らの手で、互いの心を、温め合う。

 そのための、「仕組み」を作ること。

 それこそが、私が、ここで、成し遂げるべき、本当の仕事なのだ。



 翌日、私は、隊長と、兵士全員を、中庭に集めた。

 そして、私の計画を、彼らに、はっきりと告げた。

 「本日より、病に倒れた者たちの食事は、彼らが所属する、各分隊の仲間たちが、責任を持って、担当してもらいます」

 私の言葉に、兵士たちの間に、大きな戸惑いのどよめきが広がった。

 「俺たちは、医者でも、料理人でもありません!」

 「そんなことをして、一体、何になるというのですか!」

 あちこちから、反発の声が上がる。

 私は、その喧騒を、静かに、手で制した。

 「あなた方に、医者になれと言っているのではありません。ただ、仲間のために、食事を作ってほしいのです。それも、ただの食事ではない」

 私は、集まった兵士たちの顔を、一人一人、見渡しながら、続けた。

 「あなた方の仲間が、故郷で、一番好きだった食べ物は、何ですか。子供の頃、母親が作ってくれた、思い出の味は、何ですか。それを、あなた方の間で、話し合い、考え、そして、あなた方自身の手で、再現してあげてほしいのです」

 「……そんな、馬鹿な」

 誰かが、吐き捨てるように言った。

 「思い出の味で、病が治るものか」

 その言葉に、同調するような、冷笑的な空気が、広がりかけた。

 その空気を、断ち切ったのは、意外な人物だった。

 料理長だった。

 彼は、一歩、前に進み出ると、吐き捨てた兵士を、鋭い目つきで、睨みつけた。

 「……やってみもしねえで、何が分かる」

 その、低く、しかし、重い声に、兵士たちは、はっとしたように、口をつぐんだ。

 料理長は、私の方に向き直ると、ぶっきらぼうに、言った。

 「奥様。レシピは、あんたが、教えてくれるんだろ?」

 「ええ。もちろん。私が、責任を持って、指導します」

 私が、力強く頷くと、彼は、満足そうに、一度だけ、頷いた。

 そして、自分の分隊の、若い兵士たちの肩を、乱暴に叩いた。

 「聞いたな、てめえら! やるぞ! コルビンの奴は、確か、南の田舎町の出身だったな。あそこの名物は、確か、鶏肉と野菜を、ごった煮にした、シチューだったはずだ。さっさと、材料を、準備しやがれ!」

 料理長の、その鶴の一声が、全体の空気を、決定づけた。

 他の分隊の兵士たちも、顔を見合わせ、ためらいながらも、一人、また一人と、動き始めた。



 その日の午後、砦の炊事場は、これまでにない、奇妙な活気に満ちていた。

 屈強な兵士たちが、慣れない手つきで、包丁を握り、野菜の皮を剥いている。

 「おい、違う! その芋の切り方は、大きすぎる!」

 「うるせえな! 俺のオフクロは、いつも、こうだったんだよ!」

 あちこちで、怒鳴り声や、ぎこちない会話が、飛び交っている。

 私は、その間を回りながら、火加減を教え、味付けの助言をした。

 私は、決して、自分の手で、調理はしない。あくまで、彼らの、補助に徹した。

 やがて、それぞれの鍋から、不格好だが、心のこもった、温かい料理が、完成した。

 兵士たちは、そのスープを、器によそい、病に倒れた、仲間の元へと、運んでいった。

 私は、ダニエルと共に、コルビンが横たわる、医務室の様子を、入り口の扉の陰から、そっと、見守っていた。

 コルビンの分隊の仲間たちが、彼の寝台を、囲んでいる。

 「おい、コルビン。起きろ。お前の、大好物だぞ」

 一人の兵士が、コルビンの体を、優しく揺さぶりながら、声をかける。

 コルビンは、虚ろな目で、彼らを見ていた。

 別の兵士が、匙で、熱いスープをすくい、ふうふうと、息を吹きかけて冷ますと、それを、コルビンの口元へと、ゆっくりと、運んでいった。

 コルビンは、最初、それを、拒むように、唇を、固く閉じていた。

 だが、仲間たちの、真剣な眼差しと、スープから立ち上る、懐かしい香りに、その抵抗が、少しずつ、和らいでいく。

 彼は、やがて、かすかに、口を開いた。

 温かいスープが、その乾いた唇を、ゆっくりと、湿らせていく。

 一口、また、一口と、スープが、彼の体の中に、注ぎ込まれていく。

 それは、単なる、栄養補給ではなかった。

 仲間との、繋がり。自分は、一人ではないという、確かな感覚。

 その、温かい感情そのものが、彼の、凍てついた心の氷を、内側から、ゆっくりと、溶かし始めているようだった。

 「……驚くべき、ことだ」

 私の隣で、ダニエルが、かすれた声で、呟いた。

 「彼の、指先を見てください。血の気が……血の気が、戻りつつある。魔力循環が、明らかに、改善している。食事による、物理的な効果だけではない。これは……」

 私は、ダニエルの言葉には、答えなかった。

 ただ、目の前の光景を、じっと、見つめていた。

 病に倒れていた兵士が、震える手で、しかし、確かに、仲間が差し出す匙を、自らの手で、そっと、握った。

 そして、もう一口、スープを、口へと運んだ。

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