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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第95話 塩の道、裏の掟

 あの日以来、砦の兵士たちが、私の炊き出しの鍋に近づいてくることはなかった。

 しかし、あからさまな敵意は、奇妙な沈黙へと変わっていた。彼らは、私が何をする人間なのか、その本質を見極めようとするかのように、距離を保ったまま、私の一挙手一投足を観察していた。

 私は、二度目の炊き出しを行うことはしなかった。

 彼らが求めていないものを、押し付けるのは自己満足でしかない。問題の根源は、空腹ではない。もっと別の、深い場所にある。それを突き止めなければ、何も始まらない。

 私は、厨房に立つことをやめた。

 代わりに、砦の隊長に、正式な許可を願い出た。

 「今後の食料計画を立案するため、備蓄庫の在庫を、正確に把握させていただきたく存じます」

 私の申し出に、隊長は、訝しげな表情を浮かべた。だが、公爵夫人からの、しかも極めて正当な理由のある要請を、無下に断ることはできない。彼は、渋々といった様子で、私に備蓄庫の鍵と、在庫を記録した古い帳簿の束を渡した。

 備蓄庫の中は、ひどい有様だった。

 薄暗く、かび臭い石造りの空間に、穀物の入った麻袋や、塩漬け肉の樽、干し野菜の籠などが、乱雑に積み上げられている。前世で叩き込まれた在庫管理の基本である「先入れ先出し」の原則など、ここには存在しないようだった。

 私は、フィーに手伝わせながら、何日もかけて、地道な作業を続けた。

 全ての物資を一旦外に出し、種類と古さで分類し、数量を数え、そして、帳簿の記録と、一つ一つ、丹念に照合していく。

 兵士たちは、そんな私たちの姿を、また遠巻きに眺めていた。彼らの目には、「公爵夫人が、物好きなことを始めた」という、冷めた好奇の色が浮かんでいるだけだった。

 そして、調査開始から五日目の午後。

 私は、ついに、この砦を蝕む病の、具体的な症状を発見した。

 「……おかしい」

 帳簿の数字と、現物の数を何度も見比べ、私は思わず呟いた。

 穀物や干し肉の量は、記録と現物の間に、多少の誤差はあれど、許容範囲内だった。

 だが、二つの品目だけが、異常なまでに、帳簿の数字とかけ離れていた。

 一つは、塩。

 帳簿上は、まだ樽で十個以上あるはずなのに、現物は、三樽しか残っていない。しかも、そのうちの一つは、ほとんど空だった。

 もう一つは、乾燥豆。

 こちらも、帳簿では麻袋で二十袋はあるはずが、実際には、五袋にも満たなかった。

 これは、単なる管理ミスや、ネズミによる食害で説明できるレベルの欠損ではない。

 誰かが、意図的に、この二つの物資だけを、大量に持ち出している。

 塩と豆。どちらも、長期保存が可能で、栄養価が高く、そして、この辺境では金と同じ価値を持つ、極めて重要な物資だ。

 私は、確信した。これは、犯罪の痕跡だと。



 その夜、私は、調査結果をまとめた羊皮紙を手に、アレスが執務室として使っている部屋を訪れた。

 彼は、私が差し出した報告書に、黙って目を通した。その表情は、いつも通り、硬く、何を考えているのか、読み取ることはできない。

 「……これが、君の出した結論か」

 一通り読み終えた彼が、静かに顔を上げた。

 「はい。何者かが、砦の内部から、継続的に、塩と豆を横流ししています。これは、間違いありません」

 私は、きっぱりと答えた。

 私の報告を聞いても、アレスは、少しも驚いた様子を見せなかった。まるで、全てを知っていたかのように。

 彼は、机の引き出しから、別の羊皮紙を取り出すと、それを、私の前に滑らせた。

 それは、暗号のような記号で書かれた、短い報告書だった。

 「私の部下が、数日前から、砦の周辺を調査していた。これは、その報告だ」

 「……これは?」

 「君が発見した『症状』の、原因だ」

 アレスは、静かに語り始めた。

 「この辺境一帯には、古くから、一つの密輸組織が存在する。彼らは、自らを『塩のソルト・ロード』と名乗っている」

 塩の道。その名前に、私は、息を飲んだ。

 「彼らは、砦の兵士たちから、塩や豆といった公的な物資を、安値で買い叩く。そして、その見返りとして、兵士たちが本当に欲しがっているものを、供給している」

 「兵士たちが、欲しがっているもの……?」

 「ああ。中央からの補給では、決して届くことのない品々だ。質の良い酒、タバコ、甘い菓子。時には、王都で流行っている雑誌や、禁止されている賭博の道具まで」

 私は、言葉を失った。

 兵士たちは、ただの被害者ではなかった。彼らは、この犯罪の、共犯者だったのだ。

 「そんな……規律違反です。なぜ、隊長は、それを取り締まらないのですか」

 「取り締まれないのだ」

 アレスの答えは、冷徹だった。

 「考えてみろ。希望もなく、娯楽もなく、いつ死ぬか分からない極寒の地で、兵士たちは、何を楽しみに生きればいい? 彼らにとって、『塩の道』との取引は、唯一、心の安寧を保つための手段なのだ。隊長も、それを黙認するしかない。兵士たちの反乱を防ぐためにはな」

 それは、歪んだ共生関係だった。

 砦の機能不全が、密輸組織という寄生虫を生み、そして、その寄生虫が分泌する麻薬によって、砦は、かろうじて、その命脈を保っている。

 「では、その『塩の道』を、武力で、討伐すれば……!」

 私がそう言いかけると、アレスは、静かに首を横に振った。

 「無意味だ。いや、逆効果だ」

 彼は、私を、諭すように見つめた。

 「彼らは、この砦を蝕む病巣だ。だが、同時に、この砦の機能を、辛うじて維持している、鎮痛剤でもある。痛みの原因を取り除かずに、鎮痛剤だけをいきなり取り上げれば、患者は、ショックで死ぬ」

 彼の言葉は、あまりにも的確で、私は、何も言い返せなかった。

 では、どうすればいいというのか。この、ゆっくりと死に向かっている砦を、救う術は、ないというのか。

 絶望的な沈黙が、部屋を支配した。

 やがて、アレスが、静かに、しかし、力強い声で、言った。

 「武力ではない。戦う場所は、そこではない」

 彼は、椅子から立ち上がると、窓の外に広がる、暗い山脈を見つめた。

 「我々が、彼らよりも、有用な『取引相手』になればいい」

 その言葉の意味を、私は、すぐには理解できなかった。

 アレスは、こちらを振り返ると、その瞳に、冷たい炎のような、闘志を宿して、続けた。

 「我々が、彼らよりも安く、質の良い『鎮痛剤』を供給する。そして、それだけではない。この砦が、自らの力で立ち直るための、『本当の薬』も、同時に供給するのだ」

 彼は、私の前に置かれた、在庫記録の羊皮紙を、指で、とん、と叩いた。

 「武力戦ではない。これは、経済戦争だ。我々が、この砦の物流と経済を完全に掌握し、『塩の道』の存在意義を、この地から、根絶やしにする」

 私は、彼の言葉を、呆然と聞いていた。

 そして、ようやく、理解した。

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