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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第94話 歓迎されざる者

 雪崩の現場を後にしてから、砦までの道のりを、私はほとんど覚えていない。

 救助された二人の兵士は、仲間たちの手で担架に乗せられ、運ばれていった。彼らの体は凍傷で紫色に変色し、意識は混濁したままだった。それでも、命はあった。

 命は、あったのだ。

 だが、私の心の中を満たしていたのは、安堵ではなかった。雪の下に残してきた、見捨てられた者たちへの、重い、重い罪悪感だった。

 アレスは、あの日以来、雪崩の件について、一言も口にしなかった。彼は統治者として、最善の、あるいは、唯一の選択をしたに過ぎない。彼の判断がなければ、二次災害で、さらに多くの犠牲者が出ていたかもしれない。

 頭では、分かっていた。

 だが、心が、どうしても、その冷徹な現実を受け入れることを拒んでいた。

 私の理想は、砕け散った。温かい食事も、励ましの言葉も、絶対的な自然の暴力と、命の選択という非情なルールの前では、何の力も持たなかった。

 私は、無力だった。

 その事実だけが、鉛のように、私の体にのしかかっていた。

 馬に揺られながら、私は、自分の手を見つめた。この手で、一体何ができるというのだろう。この先に待つ、さらに過酷な現実を前に、私は、また、何もできずに立ち尽くすだけなのではないか。

 そんな自問自答を繰り返しているうちに、視界の先に、黒い影が見えてきた。

 灰色山脈の険しい岩肌に、へばりつくように建てられた、石造りの砦。それが、私たちの目的地、北境警備隊の駐屯地だった。

 それは、希望の光を放つ場所には、到底見えなかった。むしろ、長年の風雪に耐えかねて、今にも崩れ落ちそうな、巨大な墓石のように、不吉な沈黙を保っていた。



 砦の重い木の扉が、軋むような音を立てて開かれる。

 私たちが中庭に足を踏み入れた瞬間、そこにいた全ての兵士たちの動きが、ぴたりと止まった。

 そして、数十の視線が、一斉に、私たちに向けられた。

 私は、息を飲んだ。

 彼らの姿は、私が領都の兵舎で見た兵士たちよりも、さらに荒廃していた。

 擦り切れて色褪せた軍服。伸び放題の無精髭。そして、何より、その瞳。誰もが、光を失った、濁った瞳をしていた。そこには、希望も、誇りも、何もない。ただ、終わりのない冬を耐え忍ぶだけの、深い諦めの色が、澱のように溜まっていた。

 彼らの視線は、まず、威厳を湛えて馬から降りるアレスに向けられた。そこには、畏怖と、ほんの少しの緊張があった。

 だが、その視線が、アレスの後ろにいる私に移った瞬間、その質は、がらりと変わった。

 好奇ではない。歓迎でもない。

 それは、あからさまな、冷たい敵意と、侮蔑の色を帯びていた。

 ああ、そうか。彼らは、もう、知っているのだ。

 私たちが、途中で雪崩に遭ったことも。そして、彼らの仲間を、雪の下に見捨ててきたことも。

 彼らにとって、私は、着飾っただけの、お飾りの公爵夫人。そして、仲間を見殺しにした、冷酷な領主の妻。それ以上でも、それ以下でもないのだ。

 突き刺さるような視線の矢面に立たされ、私の足は、すくみそうになった。今すぐ、この場から逃げ出してしまいたい。

 しかし、私は、動けなかった。

 ここで逃げれば、私は、本当にただの「お飾りの公爵夫人」で終わってしまう。

 私は、唇を強く噛みしめ、背筋を伸ばした。そして、彼らの敵意を、その侮蔑を、全身で受け止める覚悟で、まっすぐに前を見据えた。

 砦の責任者である隊長が、アレスの前に進み出て、硬い表情で敬礼をする。形式的な報告が、事務的に交わされる。

 その間も、兵士たちの視線は、私から外れることはなかった。

 やがて、アレスが、私を振り返った。

 「レティシア。君の仕事は、ここからだ」

 その声は、いつもと変わらない、静かな響きを持っていた。だが、その瞳の奥には、「君ならできるはずだ」という、揺るぎない信頼が宿っていた。

 私は、小さく、しかし、はっきりと頷いた。

 そして、私に付き従ってきた侍女のフィーと、騎士団の料理担当者たちに、手早く指示を出す。

 「炊き出しの準備を。中庭の隅をお借りします。水と、薪を、できるだけ多く集めてください」

 私の声は、幸い、震えてはいなかった。

 私は、もう、迷わない。

 たとえ、無力だと分かっていても。たとえ、偽善だと思われても。今の私にできることは、これしかないのだから。

 私たちは、中庭の隅にある炊事場を借り、持参した大きな鉄鍋を火にかけた。

 しかし、私たちの周りには、奇妙な空白地帯ができていた。

 砦の兵士たちは、誰一人として、私たちの準備を手伝おうとはしない。彼らは、建物の壁に寄りかかったり、武器の手入れをするふりをしたりしながら、ただ、遠巻きに、私たちの様子を、冷ややかに観察しているだけだった。

 やがて、鍋から、湯気と共に、食欲をそそる香りが立ち上り始めた。私が辺境の民のために考案した、乾燥野菜と燻製肉、そして麦を煮込んだ、栄養価の高いシチューだ。

 領都の兵舎では、この香りがしただけで、兵士たちが、我先にと鍋の周りに集まってきたものだった。

 だが、ここでは、違った。

 香りが広がれば広がるほど、彼らの周りの空気は、むしろ、より一層、冷たく、張り詰めていくようだった。

 シチューが、完成した。

 私は、木の器に、熱々の一杯をよそい、立ち上がった。

 そして、一番近くにいた、若い兵士のグループの方へ、一歩、足を踏み出した。

 その瞬間、彼らは、まるで、汚いものでも見るかのような目で私を一瞥すると、さっと身を翻し、建物の中へと姿を消してしまった。

 明確な、拒絶だった。

 私は、その場に、立ち尽くした。手に持った器から立ち上る湯気が、虚しく、冷たい空気に溶けていく。

 その時だった。

 兵士たちの中から、一人の男が、ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。

 年の頃は、四十代半ばだろうか。顔には、古い剣の傷跡が走り、その体つきは、長年の厳しい任務を物語るように、岩のように、ごつごつとしていた。彼が、この砦の兵士たちの、中心人物であることは、一目で分かった。

 彼は、私の目の前で、足を止めた。

 そして、その濁った瞳で、私の手の中の器と、私の顔を、交互に見比べると、吐き捨てるように、言った。

 「あんたの、その温かいスープ一杯で、死んだ仲間が、生き返るのか?」

 その言葉は、刃物となって、私の胸に、深く突き刺さった。

 雪崩の現場で、猟師のヨルゲンに言われた言葉が、頭の中で、こだまする。

 『ここではな、奥様。神様みてえな情けは、何の役にも立たねえんだ』

 男は、続けた。その声には、抑えきれない怒りと、深い絶望が、滲んでいた。

 「俺たちに必要なのは、あんたみたいな、王都から来た貴族様の、気まぐれな同情じゃねえ。そんなもんは、腹の足しにもなりゃしねえんだよ。分かるか?」

 私は、唇を、ぎゅっと噛みしめた。

 ここで、怯んではいけない。ここで、涙を見せては、いけない。

 私は、ゆっくりと、膝を折り、手にしていたシチューの器を、足元の、雪がうっすらと積もった地面の上に、静かに置いた。

 それは、私の無力さの象徴であり、そして、彼らに対する、武器を捨てるという、意思表示でもあった。

 そして、私は、その男に向かって、深々と、頭を下げた。

 埃と泥に汚れた、硬い地面に、額がつきそうになるほど、深く。

 男が、息を飲む気配がした。周りで見ていた兵士たちの間にも、動揺が走るのが、肌で感じられた。

 私は、顔を上げないまま、静かに、しかし、砦の誰もに聞こえるように、はっきりとした声で、言った。

 「私は、同情しに来たのではありません」

 一度、言葉を切る。

 そして、顔を上げた。私の瞳は、もう、揺らいではいなかった。

 「あなた方が、二度と、仲間を、見捨てずに済むための、『仕組み』を」

 私は、その男の、傷だらけの顔を、まっすぐに見つめ返した。

 「あなた方と、一緒に、作りに来たのです」

 私の言葉に、砦の中庭は、水を打ったように、静まり返った。

 目の前の古参兵は、何も言わなかった。その岩のような表情は、変わらない。だが、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、単なる敵意ではない、驚きと、戸惑いの色が、よぎったのを、私は、見逃さなかった。

 彼は、やがて、ふいと私に背を向けると、無言のまま、兵舎の方へと歩き去っていった。

 他の兵士たちも、それに続くように、一人、また一人と、その場を離れていく。

 あっという間に、中庭には、私と、アレスの部下たちだけが、取り残された。

 誰も、何も、受け取ってはくれなかった。

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