第93話 雪崩と三つの選択肢
辺境への旅は、私の想像以上に過酷なものだった。
公爵領の舗装された街道を離れ、灰色山脈へと続く道に入ると、景色は一変した。ごつごつとした岩肌を縫うように進む獣道。時折、道を塞ぐように倒れた巨木。そして、標高が上がるにつれて、頬を切りつけるように吹き付ける、氷の粒を含んだ風。
それでも、旅の前半は、まだどこか穏やかだった。
夜、風を避けて岩陰で野営する際には、アレスと二人、焚火を囲んで話をする時間があった。
「私が辺境に持ち込むのは、完成されたレシピではありません。むしろ、たくさんの『余白』を残した、基本の技術です」
私は、熱い麦茶の入ったカップを両手で包み込みながら、彼に説明していた。
「例えば、乾燥野菜の作り方と、それを戻すための基本のスープ。そこに、彼らが自分たちの土地で手に入れた山菜や獣の肉を加え、自分たちの味付けを試せるように。主役は、あくまで彼ら自身ですわ」
アレスは、黙って私の話に耳を傾けていた。揺れる炎が、彼の深い色の瞳に映り込んでいる。
「君は、人に魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える、という訳か」
「ええ。そして、できれば、もっと性能の良い釣り竿を一緒に開発できれば、と」
私の答えに、彼が、ほんのわずかに口の端を上げたのが分かった。
「君らしいな」
その短い言葉に、私たちの間に築かれた、確かな信頼関係が凝縮されているようだった。私はもう、彼に守られるだけの存在ではない。同じ未来を見つめ、共にこの領地を治めていく、対等なパートナーなのだ。その実感が、厳しい旅の疲れを忘れさせてくれた。
この時はまだ、信じていた。
どんなに厳しい現実も、対話と、知恵と、そして温かい食事があれば、きっと乗り越えていけると。
その根拠のない楽観が、自然という絶対的な暴力の前に、跡形もなく砕け散ることを、私はまだ知らなかった。
*
異変は、突然訪れた。
その日の午後、私たちは、切り立った崖に挟まれた、狭い谷間を進んでいた。先行するのは、食料や資材を積んだ荷馬車で構成される補給部隊。私たち本隊は、少し距離を置いてその後ろを進んでいた。
空は、鉛を溶かしたような、重苦しい灰色に覆われていた。風が止み、不気味なほどの静寂が、谷を支配する。
「……嫌な、静けさだ」
私の隣で馬を歩ませていたアレスが、鋭い視線で、頭上の雪庇を睨みながら呟いた。
その、直後だった。
遠くで、何かが断裂するような、低く、鈍い音が響いた。
次の瞬間、世界が、轟音に包まれた。
見上げると、谷の片側の斜面が、まるで生き物のように、その形を崩していた。巨大な雪の塊が、圧倒的な質量を持って、私たちの方へと滑り落ちてくる。
「雪崩だ! 全員、退避!」
騎士団長の絶叫が響く。馬がいななき、人々が悲鳴を上げる。
だが、逃げ場など、どこにもなかった。
白い闇が、全てを飲み込んでいく。それが、私の最後の記憶だった。
*
意識を取り戻した時、私は、アレスの腕に強く抱きかかえられていた。彼は、私を庇うように、巨大な岩の陰に身を寄せていた。
「……閣下、ご無事、ですか」
「ああ。君は?」
「はい、私は……」
幸い、私たち本隊がいた場所は、雪崩の直撃を免れたようだった。しかし、辺りの景色は、一変していた。先ほどまで道があった場所は、巨大な雪と岩の塊で、完全に埋め尽くされている。
そして、先行していた補給部隊の姿は、どこにも見えなかった。
「補給部隊は……!」
「落ち着け。今、捜索隊を出した」
アレスの声は冷静だったが、その表情は、鋼のように硬い。
騎士たちが、雪を掘り返し、必死に仲間たちの名を叫んでいる。だが、返事はない。ただ、荒々しい風の音だけが、絶望的な沈黙を、より一層際立たせていた。
時間は、刻一刻と過ぎていく。気温は、急速に低下していた。雪に埋もれた人間の生存時間は、長くない。
その時、捜索隊の後方から、一人の老人が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。この辺りの地理に詳しい、案内役として雇われた、ヨルゲンという名の猟師だった。彼は、この惨状を前にしても、顔色一つ変えていない。
彼は、私の前に立つと、その皺だらけの顔で、私を値踏みするように見つめた。
「奥様。あんた、ここに来て、温かいスープでも配って、皆を助けられるとでも思っちゃいなかったかい?」
その言葉は、あまりにも唐突で、そして、私の心の芯を、冷たく抉るような響きを持っていた。
「……え?」
「ここではな、奥様。神様みてえな情けは、何の役にも立たねえんだ。むしろ、邪魔になる」
ヨルゲンは、雪崩の跡地を、顎でしゃくった。
「あの中に、何人埋まってるか、分からねえ。だがな、日没まで、あと二時間もねえ。この寒さだ。全員を助けるなんてのは、夢物語だ」
「そん、な……」
「選ぶんだよ。助かる見込みのある奴と、ねえ奴を。助けられそうな奴が一人も見つからなけりゃ、二次災害が起きる前に、全員を見捨てて、ここから立ち去る。それが、ここで生きるための、たった一つの『ルール』ってもんだ」
私は、言葉を失った。
選ぶ? 命を? 見捨てる?
そんなことが、許されるはずがない。一人でも多くの命を救うために、全力を尽くすべきだ。それが、人として、当たり前のことではないのか。
「で、でも、諦めなければ……! 全員で、力を合わせれば、きっと……!」
私の声は、自分でも分かるほど、弱々しく震えていた。
ヨルゲンは、そんな私を、憐れむような目で見た。
「綺麗事だな。あんたのその『きっと』で、捜索隊の連中が二次災害に巻き込まれて死んだら、誰が責任を取るんだい? あんたか?」
彼の言葉に、私は、ぐっと詰まった。何も、言い返せなかった。
私の理想は、この冷徹な現実の前で、あまりにも無力で、空虚な響きしか持たなかった。
その時だった。
「閣下! 生存反応です!」
捜索隊の一人が、声を張り上げた。彼が持つ、魔力の流れを探知する魔導具が、微かな光を発している。
「二箇所! ですが、反応は、どちらも極めて微弱です!」
騎士団長が、アレスの元へ駆け寄る。
「閣下、ご決断を! 両方を同時に掘り進める時間はありません。どちらか一方に、人員を集中させるべきかと!」
全ての視線が、アレスに注がれた。
私も、祈るような気持ちで、彼を見つめた。
あなたなら、きっと、最善の方法を見つけてくれる。誰も見捨てない、温かい道を、示してくれるはずだ。
アレスは、一度だけ、私の方を一瞥した。
その瞳に、深い苦悩の色が浮かんだのを、私は、確かに見た。
だが、彼が口を開いた時、その声に、一切の揺らぎはなかった。
「魔力反応の強い方を、優先する」
その言葉が、私の頭の中で、理解できなかった。
彼は、今、何と、言った?
「残りの、もう一箇所は……」
騎士団長が、恐る恐る尋ねる。
アレスの答えは、短く、そして、刃物のように、冷たかった。
「捜索を、打ち切れ」
時が、止まったようだった。
「二次災害の危険がある。生存者を確保次第、部隊を安全な場所まで後退させろ。……急げ」
「はっ!」
騎士たちは、アレスの非情な命令に、一瞬の躊躇も見せず、即座に行動を開始した。それが、この地で生きるための、絶対的な規律なのだと、私は、ただ、呆然と見ていることしかできなかった。
やがて、雪の中から、二人の兵士が、ぐったりとした姿で運び出されてきた。
命は、あった。
だが、私の心に、喜びは、一片も湧き上がってこなかった。
助からなかった者たちがいる。
アレスが、見捨てた命が、この冷たい雪の下に、まだ、眠っている。
私は、自分の荷物の中に、兵士たちのために用意してきた、携帯食の試作品や、体を温めるためのスープの素が入っていることを、思い出していた。
それらは、今、この瞬間、何の役にも立たなかった。
命の選択という、絶対的な現実の前では、あまりにも、無力だった。
私は、何も言えず、何もできず、ただ、非情な命令を下したアレスの、統治者としての横顔を、凍える風の中で、見つめていた。
彼の表情は、硬く、そこから、いかなる感情も、読み取ることはできなかった。
風が、雪崩の跡地に残された、誰かの荷物の一つを揺らし、布の擦れる乾いた音だけが、やけに大きく、私の耳に響いていた。




