第92話 失敗する権利
公爵家の厨房は、私のための実験室と化していた。
「奥様、こちらの乾燥茸の戻し汁ですが、やはり少し土臭さが残ります」
「ありがとう、ゲルト。次は一度軽く煎ってから乾燥させてみましょう。フィー、麦の粉はもっと細かく。粒子が粗いと、お湯で戻した時に芯が残ってしまうわ」
「はい、奥様!」
巨大な調理台の上には、様々な種類の乾燥野菜、粉末にした豆、塩漬けにしてから干した肉の削りかすなどが、小さな皿にずらりと並べられている。私はそれらを様々な比率で調合し、お湯を注いでは味見をし、眉をひそめては羊皮紙に何かを書き込む、という作業を、来る日も来る日も繰り返していた。
目指しているのは、辺境の厳しい環境でも機能する、究極の携帯保存食。
条件は、極めて多い。まず、軽量であること。兵士が何日分も携行できなければ意味がない。次に、長期保存が可能であること。最低でも、一季節は品質が劣化しないようにしたい。そして、高い栄養価。過酷な任務をこなすためのカロリーと、ビタミンやミネラルも必要だ。もちろん、味も重要。士気を高めるためには、ただ腹を満たすだけでは不十分だ。最後に、調理の簡便さ。お湯を注ぐだけで、温かく、美味しい一食が完成する。それが、私の掲げた理想だった。
しかし、現実は厳しかった。
軽量化を追求して水分を抜きすぎると、お湯で戻した時の食感が悪くなり、風味も飛んでしまう。味を良くしようと油脂分を少し加えると、保存期間が著しく短くなる。栄養価を考えて豆の粉末を増やすと、溶けにくく、ざらりとした舌触りになる。
一つの要素を立てれば、別の要素が崩れる。まるで、終わりのない、もぐら叩きのようだった。
厨房の隅には、私が「失敗作」と断じた試作品の入った麻袋が、日に日に高く積み上がっていく。
「奥様、少し、お休みになられては? もう三日も、ろくに寝ていらっしゃらないでしょう」
フィーが、心配そうな顔で、温かいハーブティーを差し出してくれる。その心遣いは嬉しい。だが、私の心の中の焦りは、少しも和らぐことはなかった。
完璧なものを作らなければ。
辺境の兵士たちに、一口食べただけで、その苦労が報われるような、完璧な一品を届けなければ。
その思いが、強迫観念のように、私を開発へと駆り立てていた。それは、前世で、完璧なプレゼン資料を仕上げるために、栄養ドリンクを片手に、何日も徹夜を繰り返した、あの頃の感覚に酷似していた。
*
その夜も、私は一人、厨房に残っていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った厨房で、私は、今日作った二十七番目の試作品を前に、深く、深いため息をついた。
見た目は悪くない。味も、まあまあだ。だが、「完璧」には程遠い。何かが、根本的に間違っている気がする。
疲労困憊し、思考は完全に停止していた。私は、調理台の前のスツールに、崩れるように座り込んだ。
その時だった。
背後で、静かに扉が開く音がした。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、アレスだった。彼は、部屋着の上に、厚手のガウンを羽織っている。
「……閣下。どうして、ここに」
「ブランドンが、君がまた夕食を抜いたと報告に来た。夜食を、と思ったが、その必要はなさそうだな」
彼の視線が、調理台の上に散らばる、無数の試作品に向けられる。
私は、慌てて立ち上がった。散らかった実験の跡を、この家の主人に見られるのは、ひどく気まずい。
「申し訳ありません、散らかしたままで。すぐに片付けます」
「構わん」
アレスは、私の言葉を意に介さず、調理台に近づいてきた。そして、私が「失敗作」の山の中から、一番出来の悪かったものを入れておいた小皿を、こともなげに手に取った。
「あっ、閣下、それは……!」
私の制止も聞かず、彼は、その乾燥野菜と麦の塊を、ひとかけら、無遠慮に口に放り込んだ。そして、眉一つ動かさず、それをゆっくりと咀嚼する。
長い、沈黙。
やがて、彼は、それを飲み込むと、私の顔を見て、ただ一言、率直な感想を述べた。
「まずいな」
その言葉に、私の顔から、かっと血の気が引いた。恥ずかしさと、自分の不甲斐なさで、顔が燃えるように熱い。
しかし、アレスは、そんな私の様子など気にも留めず、続けた。
「レティシア。君は、辺境に何を届けたいんだ?」
「……最高の、食事を、ですわ」
私は、俯きながら、かろうじてそう答えた。
「なぜだ?」
「なぜ、と申しますと……? それは、もちろん、厳しい環境にいる兵士たちの、ためです」
「そうか」
アレスは、静かに相槌を打った。そして、私の心の最も深い場所を、見透かすような瞳で、次の問いを投げかけた。
「君が届けようとしているのは、『レティシア・アレスティードの完璧な料理』だ。違うか?」
その言葉は、まるで、私の頭を鈍器で殴られたかのような、強い衝撃を伴っていた。
私は、はっと顔を上げた。
彼の言葉は、私の欺瞞を、容赦なく暴いていた。
そうだ。私は、いつの間にか、辺境の兵士たちのことを見ていなかった。私が満足するための、「完璧な作品」を作ることばかりに、夢中になっていた。
アレスは、言葉を続けた。その声は、静かだったが、一つ一つの単語が、私の心に、鋭く突き刺さる。
「だが、彼らに必要なのは、本当にそれか? 君がいなければ、二度と作れないような、完璧な一品か?」
彼は、一度、言葉を切った。
「彼らに必要なのは、君がいなくても、自分たちで作り続けられる、『未完成の技術』ではないのか?」
未完成の、技術。
その言葉が、私の思考の中で、雷鳴のように響き渡った。
そうだ。私は、なんて、傲慢だったのだろう。
私は、辺境の民を、ただ助けられるべき、無力な存在だと、無意識のうちに、見下していたのだ。彼ら自身の知恵や、彼らの土地で育つ食材の可能性を、完全に無視していた。
私がやろうとしていたことは、結局のところ、完璧なものを「与えてやる」という、一方的な押し付けに過ぎなかった。
それは、かつて、父や継母が、私のためだと信じ込み、「いい子」でいることを強要してきた、あの歪んだ支配の構図と、本質的には、何も変わらないのではないか。
その事実に気づいた瞬間、背筋が、ぞっとするほど冷たくなった。
私は、テーブルの上に並べられた、完璧を目指した試作品の数々を、呆然と見つめた。これらは全て、私の独りよがりな自己満足の、残骸だった。
私は、アレスに向き直り、そして、深々と、頭を下げた。
「……ありがとうございました、閣下。目が、覚めました」
アレスは、何も言わなかった。ただ、静かに頷くと、私の肩を、一度だけ、軽く叩いた。そして、音もなく、厨房から出て行った。
一人残された私は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、私は、意を決すると、調理台の上の試作品を、一つ残らず、手でかき集めた。そして、厨房の隅にある、家畜の餌用の大きなゴミ箱の中に、それを、全て、躊躇なく捨てた。
すっかり空になった調理台の前に、私は、再び立った。
そして、壁際の棚から、一枚の、真新しい、真っ白な羊皮紙と、インク壺を取り出す。
私は、羽根ペンを、強く握りしめた。
羊皮紙にペン先を落とし、私が書き始めたのは、完成品のレシピではなかった。
『基本となる乾燥技術と、現地で応用可能な食材リスト』
その、最初の見出しだった。




