第90話 本当の家に、帰る
私が署名を終えた羊皮紙を、グスタフ様が丁重に受け取り、専用の革筒へと収めた。
乾いたインクの匂いが、部屋に満ちている。それは、長い物語の、一つの章が終わったことを告げる匂いのようだった。
「これで、全ての手続きは完了いたしました」
グスタフ様の言葉に、私は静かに頷いた。
ダニエル先生が、安堵したように息をつき、私に向かって深く頭を下げた。
「公爵夫人。あなたの、そのご決断に、一人の人間として、心からの敬意を表します」
「ありがとうございます、先生。先生のご協力がなければ、ここまで辿り着けませんでしたわ」
私たちは、短い言葉と、互いの労をねぎらう視線を交わした。
窓の外は、すでに深い茜色に染まっている。長い一日だった。私の過去の全てを清算するための、あまりにも長い一日。
「帰るぞ」
それまで黙って成り行きを見守っていたアレスが、静かに立ち上がり、言った。
その「帰る」という一言が、私の心の芯に、温かい滴のように染み込んでいく。
そうだ、帰るのだ。私の、本当の家に。
私たちは、臨時執務室を後にし、この屋敷から去るために、玄関ホールへと向かった。グスタフ様とダニエル先生は、後処理のためにこの場に残るという。
大理石の床に、私とアレスの二人の足音だけが、高く、静かに響いていた。
*
玄関ホールは、がらんとしていた。
昼間の喧騒が嘘のように、今はただ、夕暮れの赤い光が、高い窓から斜めに差し込んでいるだけだ。
私たちが、重厚な玄関扉へ向かって歩を進めていた、その時だった。
ホールの隅にある、控え室の扉が乱暴に開き、二人の衛兵に両脇を抱えられた男が、よろめくように姿を現した。
父だった。
「お待ちください! お待ちを!」
衛兵が制止するのも聞かず、彼は最後の力を振り絞るようにして、私たちの前に立ちはだかった。その顔は、もはや貴族の威厳など微塵もなく、ただ、全てを失った男の、醜い執着だけが浮かんでいた。
アレスが、私を庇うように、一歩前に出た。その背中が、私と父との間に、絶対的な壁を作る。
「これ以上の狼藉は許さん。連れて行け」
アレスの、地を這うような低い声に、衛兵たちが慌てて父の腕を掴もうとする。
だが、私は、そっとアレスの腕に触れ、その動きを制した。
「閣下、結構ですわ」
アレスが、わずかに驚いたように私を振り返る。
「これは、私が、終わらせなければなりません」
私は、アレスの背後から一歩前に出た。そして、私の人生を支配し続けた男と、最後の対峙をする。
父は、アレスが引いたのを見ると、その濁った瞳を、私に向けた。その瞳には、もはや怒りも、悲しみもない。ただ、底なしの、どろりとした何かが渦巻いているだけだった。
「レティシア」
父が、かすれた声で、私の名前を呼んだ。
「……これで、満足か」
その問いは、私の予想していたものとは、少し違っていた。
「お前は、お前を育てた家族を、この手で滅ぼしたんだぞ! 私も、お前の母も、そして、哀れなセシリアも! 全て、お前のその手で!」
それは、泣き落としでも、脅迫でもなかった。
私の心に、罪悪感という名の、一生消えない楔を打ち込もうとする、最も悪質な、呪いの言葉だった。
「お前はこれから、アレスティード公爵夫人として、何不自由なく生きていくのだろう。だが、忘れるな。お前のその幸福は、我々家族の屍の上に成り立っているのだということを! その罪の意識が、お前の心を、一生、苛み続けるだろう!」
父は、まるで狂人のように、そう叫んだ。
私は、その言葉の全てを、静かに受け止めた。
そして、ゆっくりと、息を吸った。夕暮れの、冷たい空気が、私の肺を満たす。
私は、父の目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳に浮かんでいたのは、怒りでも、憎しみでもない。ただ、深い、深い、憐れみの色だった。
「いいえ、父上」
私の声は、穏やかだった。
「私は、家族を滅ぼしたのではありません」
私は、隣に立つアレスの手に、そっと自分の手を重ねた。彼は、驚くことなく、その手を、力強く握り返してくれた。その確かな温もりを、私は自分の手のひらで感じていた。
「あなた方が、自ら滅んだのです。ルールを無視し、人を道具として扱い、その歪みの上に、偽りの幸福を築こうとした。その土台が、崩れ去った。ただ、それだけのことですわ」
私は、言葉を続ける。
「そして、私がこれから手に入れるのは、誰かの犠牲の上に成り立つ幸福ではありません。私が、自分の手で、自分の意思で、築き上げていく、私のための、私の家です」
私は、アレスと重ねた手に、少しだけ力を込めた。
「ですから、私は、どこかへ行くのではありません」
私は、父に向かって、最後の言葉を、はっきりと告げた。
「ようやく、本当の家族の元へ、『戻る』のです」
*
父は、私の言葉の意味を、すぐには理解できなかったようだった。その顔に、困惑と、そして、やがて訪れた完全な絶望の色が、ゆっくりと広がっていく。
彼は、何かを言い返そうとして、口をかすかに開けたが、そこからは、何の音も生まれなかった。
衛兵が、今度こそ、彼の両腕を、確りと掴んだ。
父は、もはや、抵抗しなかった。全ての力を失い、まるで魂の抜け殻のように、引きずられていく。
その背中を、私は、もう振り返らなかった。
アレスが、私の手を引き、重厚な玄関扉へと、ゆっくりと歩き出す。
扉が開かれると、ひやりとした夜の空気が、私たちの頬を撫でた。空には、一番星が、一つ、瞬いている。
待たせていた馬車に、アレスが先に乗り込み、私に手を差し伸べた。私は、その手を取り、馬車の中へと足を踏み入れた。
扉が閉められ、御者の合図と共に、馬車は、滑るようにして走り出した。
私は、窓の外に目を向けた。
ラトクリフ家の屋敷が、その窓の明かりと共に、みるみるうちに小さくなっていく。私の過去の全てが、そこに凝縮されているようだった。
やがて、屋敷は、夜の闇の中に、完全に溶けて見えなくなった。
ふと、自分の手が、冷えていることに気づいた。
その冷たい手を、向かいに座るアレスが、黙って、彼自身の両手で、そっと包み込んでくれた。
彼の掌から伝わってくる、確かな熱と、生命の温もり。
私は、その温かさに包まれた自分の手を、ただ、じっと見つめていた。
そして、ゆっくりと、その温かい手に、自分の指を、一本ずつ、絡ませていく。
それに気づいた彼が、私の指に応えるように、その手に、わずかに、力を込めた。
言葉は、なかった。
私は、窓の外の、流れていく闇に、再び目を向けた。
そして、長く息を吐いた。




