第89話 鎖からの解放
閉廷の宣言と共に、法廷の張り詰めた空気は、重いため息と、解放されたような安堵の囁きへと変わっていった。
衛兵に両脇を抱えられた父と継母が、抵抗する気力もなく、引きずるように退廷させられていく。その姿を、私は一度だけ振り返り、そして、もう二度と見ることはなかった。
首席判事をはじめとする関係者への挨拶を終え、私たちは法廷として使われた応接室を後にした。向かったのは、同じ屋敷の一室に設けられた、アレスティード公爵家の臨時執務室だ。
部屋には、アレスと私、そして法務官長のグスタフ様だけが残った。窓の外では、すでに陽が傾き始めている。長い一日だった。
「レティシア」
アレスが、私の名前を呼んだ。その声には、今日の戦いを終えた私を労うような、穏やかな響きがあった。
「最後の議題が残っている」
彼の言葉に、私は静かに頷いた。
セシリア。
私の異母妹であり、かつて私を蝕んだ魔力の暴走源。彼女の今後の処遇を、決めなければならない。
グスタフ様が、ドアを静かにノックした。入室してきたのは、軍医のダニエル先生だった。彼は、私たちに一礼すると、会議用のテーブルに着席した。この問題が、もはや家族の情で語るべきものではなく、専門的な見地から判断されるべき案件であることを、その人選が示していた。
「では、始めよう」
アレスの言葉を合図に、私は懐から、あらかじめ準備しておいた一束の書類を取り出した。
「セシリア・ラトクリフの今後の処遇に関する、私の提案です」
私は、その書類をテーブルの中央に滑らせた。グスタフ様とダニエル先生が、それぞれ一部を手に取り、目を通し始める。アレスは、私の隣で、同じ書類を静かに読み進めていた。
書類の表題は、『魔力過敏者セシリア・ラトクリフの自立支援計画書』。
そこには、感情的な言葉は一切なく、箇条書きで、私の提案とその論理的根拠が記されていた。
一、対象者セシリア・ラトクリフの身柄は、アレスティード公爵家では引き取らない。
理由:対象者と私、レティシア・アレスティードとの間には、長年にわたる魔力供給による共依存関係が認められる。物理的距離を確保し、依存対象からの完全な隔離を行うことが、治療の第一歩であるため。
二、対象者の保護先として、王都に存在する、中立的な教会運営の療養施設を推奨する。
理由:同施設は、魔力過敏者の治療と社会復帰において、王国で最も優れた実績を持つ。専門家による魔力制御訓練、及び、同年代の患者との集団生活を通じて、対象者が「レティシアの妹」ではなく、一個の人間「セシリア」としての自我を確立する環境が最適であると判断するため。
三、対象者の治療、及び、自立に関わる全ての費用は、先に設立を宣言した『ラトクリフ領復興基金』より、対象者が完全に自立するまで支出するものとする。
理由:これは、過去の搾取に対する贖罪ではない。対象者が、ラトクリフ領で発生した魔力災害の当事者の一人として、領地の復興資金から正当な治療を受ける権利を有するため。
書類を読み終えたダニエル先生が、深く頷いた。
「……完璧です、公爵夫人。医学的見地から、一点の曇りもなく、これが最善の治療計画であると断言できます。特に、依存対象であるご自身から、物理的・心理的に完全に切り離すというご判断は、極めて重要かつ、正しい」
グスタフ様もまた、法務官長としての視点から、静かに口を開いた。
「法的にも、何ら問題はございません。基金からの支出に関しても、その目的と使途が明確であり、公明正大です。何より、対象者の人権を最大限に尊重しつつ、将来的なリスクを完全に排除した、見事な計画です」
二人の専門家が、私の提案を、それぞれの立場から承認した。
最後に、アレスが、読んでいた書類から顔を上げた。彼の瞳には、私が予想していたような、単なる同意や安堵の色はなかった。そこにあったのは、私の計画の、さらに先を見据えた、統治者としての鋭い光だった。
「良い計画だ。だが、二点、補足する」
彼は、人差し指を二本立てた。
「一点目。施設の選定と交渉は、公爵家の情報網を最大限に活用し、最高の環境を確保する。費用は基金から支出するが、その支払い自体は、アレスティード公爵家が無限責任で保証する。これにより、いかなる状況でも、彼女の治療が中断されることはない」
そして、彼は、もう一本の指を立てた。
「二点目。施設に対し、彼女の治療経過と生活状況に関する、月次の詳細な報告を義務付ける。その報告書は、ダニエル先生とグスタフ様が監督し、問題が発生した場合は、即座に対応できる体制を構築する」
彼の補足は、私の計画の穴を塞ぎ、それを盤石なものへと変える、完璧なものだった。彼は、ただ私を守るだけではない。私の決断を尊重し、その上で、彼の持つ力と権限を使い、それをより確実な未来へと繋げてくれる。
これが、私たちが築き上げてきた、パートナーという関係だった。
「……異論ありません。閣下のご裁可を」
私がそう言うと、アレスは短く頷いた。
「決定だ。グスタフ、直ちに法的文書を作成し、施設への通達準備を」
「はっ」
グスタフ様は、その場で羊皮紙を取り出すと、驚くべき速さで、今しがた決定した事項を、法的な効力を持つ正式な文書へと落とし込んでいく。
やがて、完成した文書が、私の前に差し出された。
『セシリア・ラトクリフの後見人権限の委譲、及び、自立支援計画の実行に関する合意書』
その末尾には、後見人代理として、私の署名を記す欄が設けられていた。
私は、グスタフ様が差し出した羽根ペンを、静かに受け取った。
この一筆で、私とセシリアを繋いでいた、歪んだ家族という名の最後の鎖が、完全に断ち切られる。
それは、突き放すことではない。
彼女に、自分自身の足で人生を歩む機会を与えるという、私が彼女に与えられる、唯一にして最大の、贈り物だった。
私は、迷うことなく、インク壺にペン先を浸し、そして、署名欄に、私の名前を記した。
レティシア・アレスティード。
インクが、羊皮紙に染み込んでいく。
私は、そのインクが乾くのを静かに見届けると、ペンをそっと、テーブルの上に置いた。




