第8話 予算会議と見えない味方
執事長ブランドン様の裁定により、家令の直接的な妨害は鳴りを潜めた。しかし、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。数日後、彼が仕掛けてきた次なる一手は、より狡猾で、本質的なものだった。
「奥方様。来月からの厨房運営に関する、正式な予算会議を執り行います」
ブランドン様からそう告げられた時、私はすぐに家令の狙いを理解した。彼は、私の行動そのものではなく、その源泉である「予算」を断つことで、私を兵糧攻めにするつもりなのだ。食費を削減されれば、私が作れる料理の幅は狭まり、兵舎への炊き出しのような「余分な」活動は不可能になる。実に、彼らしいやり方だった。
「奥様、どうしましょう……。このままでは、せっかく温かいものを出せるようになったのに、またあの冷たい食事に逆戻りですわ」
報告を聞いたフィーは、自分のことのように悔しがった。
「大丈夫よ、フィー」
私は、夜なべをして仕上げた数枚の羊皮紙を手に、静かに微笑んだ。
「数字は、嘘をつかないから」
前世で、理不尽な上司やクライアントを相手に、何度も企画書と見積書を書き直した夜がある。あの経験が、今、私の最大の武器になろうとしていた。
*
会議室の空気は、氷のように冷え切っていた。
長いテーブルの上座にブランドン様が座り、その両脇に私と家令が対峙する。家令の後ろには、会計係や調度品係など、彼の息のかかった者たちが数人控え、私に敵意のこもった視線を向けていた。完全な四面楚歌だ。
「では、会議を始める」
ブランドン様の厳かな声で、戦いの火蓋が切られた。
先手を取ったのは、もちろん家令だった。
「執事長殿。こちらが、前年度の厨房関連の予算と、支出実績です」
会計係が、分厚い帳簿をブランドン様の前に広げる。
「そして、こちらが奥方様が厨房に立たれるようになってからの、ここ一週間の食材の出納記録。ご覧の通り、バターや香辛料といった、これまであまり使われなかった高級食材の消費が急増しております。このままでは、食費が前年度比で三割増しになる計算です」
家令は、勝ち誇ったように言った。
「さらに、先日行われた兵舎での炊き出し。あれに費やされた食材と人件費を計算すると、莫大な額になります。家の品位を貶めた上に、財政まで圧迫するとは。もはや看過できません。来月からの厨房予算は、前年度より二割削減することを提案いたします」
それは、事実上の最後通告だった。彼の後ろに控える者たちも、「ごもっともです」「財政の健全化こそ急務」などと口々に同調する。彼らは、私が感情的に反論するか、あるいは言葉に詰まるのを期待しているのだろう。
だが、私は静かに手を挙げた。
「よろしいでしょうか、ブランドン様」
許可を得て立ち上がると、私は自ら用意した帳簿を、家令の帳簿の隣に広げた。それは、私がこの数日間、保存庫の在庫をすべて洗い出し、日々の食材の消費量を細かく記録した、生きた帳簿だった。
「家令の仰る通り、バターや香辛料の消費は増えました。それは事実です」
私がそう認めると、家令の口元に嘲るような笑みが浮かぶ。
「ですが、物事の一側面だけを見てはいけません。全体を見るべきです」
私は帳簿の一点を指差した。
「こちらをご覧ください。私が厨房に立つようになってから、食材の『廃棄率』が限りなくゼロに近づいています。以前は、古くなって捨てられていた干し野菜の端切れはスープの出汁に。硬くなったパンは、パン粉やクルトンに。家令の帳簿には、この『見えない損失』が計上されていません」
私は続けた。
「それらを合算して計算し直した結果が、こちらです」
私は、もう一枚の羊皮紙を広げる。そこには、美しい円グラフが描かれていた。
「私のやり方では、全体の食費は、前年同月比で、むしろ一割削減される見込みです」
*
会議室が、水を打ったように静まり返った。
家令も会計係も、信じられないという顔で私の帳簿とグラフを凝視している。彼らの頭の中では、私の主張をどうにかして論破しようと、必死で計算が始まっていることだろう。だが、無駄だ。私の数字に、一点の曇りもない。
「次に、兵舎での炊き出しについて」
私は、彼らが我に返る前に、次のカードを切った。
「家令は、あれを『無駄な出費』と断じました。しかし、私はあれを『投資』だと考えております」
「投資、だと……?」
ブランドン様が、初めて興味深そうな声を上げた。
「はい。兵士の士気が向上すれば、訓練の効率が上がります。それは、長期的に見て、領地の防衛力強化に繋がる。また、栄養バランスの取れた温かい食事は、兵士たちの健康を維持し、病による離脱者を減らす。それは、医療費というコストの削減に繋がります。私の炊き出しは、わずかな食材費で、それ以上の価値を生み出す、極めて投資対効果の高い活動です」
前世で嫌というほど叩き込まれた、経営用語とプレゼンテーション能力。まさか、こんな形で、これほど痛快に使える日が来るとは。
私は、とどめを刺すように、最後の羊皮紙をテーブルの中央に滑らせた。
「そしてこちらが、私の提案する、来月一ヶ月分の献立案と、それに伴う詳細な予算計画書です」
そこには、朝昼晩の三食、三十一日分の献立が、栄養バランス、彩り、そしてコストまで計算されて、完璧な表にまとめられていた。
「私は、コストを削減しながら、食事の質を上げています。そして、閣下や兵士たちの健康という、金銭には代えがたい価値を生み出している。これでもまだ、私のやり方が家の損失だと、仰いますか?」
私は、呆然と立ち尽くす家令に向かって、静かに微笑んでみせた。
ぐうの音も出ない、とはこのことだろう。家令は、悔しさに顔を歪め、唇を噛み締めるだけで、一言も発することができなかった。
*
ブランドン様は、私の提出した計画書を、長い時間、食い入るように見つめていた。その指が、計算され尽くした献立の表を、ゆっくりと何度もなぞっている。
やがて、彼は顔を上げ、厳粛な声で宣言した。
「……決定だ。来月より、厨房の予算管理と献立作成に関する権限を、試行的に奥方へ移譲する。予算は、この計画書に記載の通りとする」
それは、私の完全勝利を告げる鐘の音だった。
会議が終わり、皆が退出していく中、私は一人、安堵のため息をついていた。その時、部屋を出ようとしていたブランドン様が、ふと足を止め、私の方へ振り返った。
「奥方」
「はい」
「先日のことだ。閣下が、君の作ったシチューを召し上がりながら、ぽつりと、こう仰っていた」
ブランドン様は、少しだけ、本当にわずかに、その硬い表情を和らげた。
「『……味がする』、と」
その言葉の意味を、私は一瞬、理解できなかった。味がするのは、当たり前ではないか。
私の戸惑いを察したように、ブランドン様は続けた。
「閣下は長年、食事を『儀式』としてこなしてこられた。おそらく、味など感じてはおられなかったのだろう。君が来て、初めて、食事に『味』があることを思い出されたのだ。……それは、どんな言葉よりも雄弁だ」
彼はそれだけを言うと、今度こそ部屋を出て行った。
一人残された会議室で、私はその言葉を反芻する。
味がする。
その、あまりにも不器用で、あまりにも率直な感想。
私の見えないところに、もう一人、確かに味方がいた。それは、この城で最も孤独で、最も冷たいと噂される、私の契約上の夫、その人だった。