第85話 支配者の密書
継母の虚飾が暴かれ、彼女が床に崩れ落ちてからも、資産査定の時間は止まらなかった。
調査官たちは、一人の女の破滅など意にも介さず、淡々と自分たちの職務を続けている。彼らの目にあるのは、数字と事実だけだ。その無感情なまでのプロフェッショナリズムが、この部屋の空気を支配していた。
父は、妻の自滅を目の当たりにしてから、再び口を閉ざしていた。その顔には、先ほどの絶望に加え、妻への軽蔑と、そして自分自身の愚かさへの後悔が、醜く混ざり合っているように見えた。
調査の焦点は、継母の私室から、再び父の書斎へと移っていた。壁一面を埋め尽くす本棚、重厚な執務机、そして壁に飾られた歴代当主の肖像画。その一つ一つが、この家の歴史と権威を象徴しているはずだったが、今やただの差し押さえ品目にしか見えない。
*
「グスタフ様、こちらを」
本棚の裏を調べていた若い調査官が、声を上げた。
彼は、本棚の特定の場所を押し込み、隠し戸棚の存在を明らかにした。それは、よくある貴族の屋敷の仕掛けだったが、問題はその奥にあった。
戸棚の奥には、鉄製の小さな金庫が、壁に埋め込まれるようにして設置されていた。古めかしいが、見るからに頑丈な錠前が、その中身を固く守っている。
「……それは、先祖代々の重要な書類を保管しているだけのものだ。開けるには及ばん」
それまで沈黙を守っていた父が、かすれた声で言った。その声には、明らかな動揺が混じっていた。
グスタフ様は、父を一瞥すると、静かに首を横に振った。
「当家の査定方針は、全ての資産を例外なく確認することです。ご協力いただけない場合、やむを得ず破壊することも許可されておりますが、いかがなさいますか」
その言葉に、父はぐっと唇を噛み、顔を伏せた。
グスタフ様の合図で、専門の錠前師が呼ばれ、手際の良い作業で、古い金庫の錠は、やがて小さな音を立てて開いた。
調査官が、慎重に中身を取り出していく。
いくつかの土地の権利書、古い家系図、そして、数点の宝飾品。父の言葉通り、一見すれば、旧家の金庫にありふれた品々だった。
だが、その一番下に、油紙で丁寧に包まれた、一束の手紙が残されていた。
調査官が、その手紙の束をグスタフ様へと手渡す。
グスタフ様は、その包みを受け取ると、油紙を解き、中から出てきた数通の封書に目を通し始めた。
その瞬間、それまで常に冷静沈着だった彼の眉が、わずかに、しかし確かに顰められたのを、私は見逃さなかった。
彼は、手紙の束を一度閉じると、無言のまま、アレスティード公爵の元へと進み出た。そして、恭しくその手紙の束を差し出した。
「閣下、これは……」
アレスは、その手紙を受け取ると、感情の読めない瞳で、一枚、また一枚と目を通し始めた。
部屋の空気が、変わった。
先ほどまでの、事務的で乾いた空気ではない。もっと冷たく、重く、張り詰めた何かが、アレスを中心に、ゆっくりと広がっていく。
彼の周りの温度が、数度、急激に下がったかのような錯覚。
やがて、アレスは手紙から顔を上げると、立ち上がった。そして、ゆっくりと、父が座る椅子の前まで歩いていく。
彼は、手に持った手紙の一枚を、父の目の前に、ひらりと落とした。
「……これは、何だ」
アレスの声は、静かだった。だが、その静けさの下には、煮えたぎる溶岩のような、激しい怒りが抑え込まれているのが分かった。
父は、床に落ちた手紙に視線を落とし、その顔色を完全に失った。
私も、アレスの隣から、その手紙を覗き込んだ。
そこに書かれていた流麗な筆跡は、見覚えのあるものだった。私がアレスティード家に嫁いでから、何度も目にしてきた、あの家の家令の筆跡だ。
そして、手紙の宛名は、ラトクリフ伯爵。私の父。
内容は、私が公爵家に嫁いでからの行動を、逐一報告するものだった。私が厨房に入ったこと、侍女たちと親しくなったこと、公爵との関係。その全てが、まるで監視記録のように、詳細に記されていた。
そして、手紙の最後には、父からの指示に対する返信と思われる一文があった。
『ご指示の通り、引き続き奥方を監視し、公爵閣下を懐柔させ、ラトクリフ家の傀儡とするべく、万全を期す所存にございます』
傀儡。
その一言が、全ての意味を明らかにした。
父は、私を厄介払いしたのではなかった。
彼は、私という駒を、アレスティード公爵家という、より大きな盤の上に進めたのだ。そして、内通者である家令を使い、私を遠隔で操り、最終的にはこの強大な公爵家そのものを、裏から支配しようと画策していた。
これまで、無能で、虚栄心の強い妻の言いなりになっている、哀れな男だと思っていた。
だが、違った。
その仮面の下に隠されていた本当の顔は、自分の娘ですら、他家を乗っ取るための道具としか見なさない、歪んだ支配欲に満ちた、狡猾な男の顔だった。
アレスは、何も言わなかった。
ただ、床に落ちた手紙を、そして、震える父を、絶対的な軽蔑を込めた目で見下ろしている。
彼の怒りは、私という妻が、道具として扱われ、侮辱されたことに対するものだけではないだろう。自らが信頼し、家の内務を任せていた家令が、裏切り者であったという事実。その二重の裏切りが、彼のプライドを深く傷つけていた。
彼が、手にした手紙の束を握りしめる。その指の関節が、白く浮き上がっていた。
グスタフ様が、静かに父の前へ進み出ると、床に落ちた手紙と、アレスが持つ残りの束を、丁重に、しかし有無を言わさぬ手つきで回収した。
「これらの密書は、ラトクリフ伯爵による、アレスティード公爵家への内政干渉、及び、転覆計画の証拠物件として、最重要指定で押収いたします」
彼は、記録係にそう告げると、その密書の束を、分厚い証拠品目録の、一番上に、静かに追加した。
父は、もはや、何も答えなかった。
全ての化けの皮を剥がされ、その醜悪な本性を白日の下に晒された彼は、ただ、深く、深く、うなだれていた。




