第84話 虚飾の代償
ラトクリフ伯爵家の資産査定は、静かに、そして冷徹に進行していた。
かつて父が威厳を誇示するために使っていた書斎は、今やアレスティード公爵家の調査団によって完全に占拠されていた。グスタフ様を筆頭に、帳簿係、鑑定士、記録係が、それぞれ専門的な目で、この家に残された全ての価値を仕分けしていく。
父は、魂が抜け落ちた抜け殻のように、隅の椅子に座らされている。時折、調査官が確認のために名を呼ぶと、虚ろな目で緩慢に顔を向けるだけだった。
対照的に、継母はまだ戦っていた。彼女は、背筋を伸ばして長椅子に腰掛け、扇で顔を隠しながら、調査官たちの動きを鋭い目で見張っている。その姿は、嵐の中、沈みゆく船の上で、なおも船長の威厳を保とうとする滑稽な船乗りのようだった。彼女のプライドが、この家の負債そのものであることに、彼女自身だけが気づいていない。
私は、アレスの隣で、その全てを静かに見守っていた。言葉を発することもなく、ただ、事実が一つずつ積み上げられていくのを、この目に焼き付けていた。
*
事態が動いたのは、午後もだいぶ傾いた頃だった。
継母の私室から運び出された衣装箪笥と、宝石箱の中身の査定を行っていた調査官の一人が、困惑したように首を傾げた。
「グスタフ様。少々、不可解な点が」
その声に、部屋にいた全員の視線が集まる。
グスタフ様は、分厚い土地台帳から顔を上げると、静かにその調査官の元へ歩み寄った。調査官が差し出したのは、継母の所有する宝飾品と高級ドレスの目録だった。
「奥様の私有財産ですが、その数が、伯爵家の公式な歳出帳簿に記録されている購入記録と、全く一致いたしません。帳簿の十倍は下らないかと」
グスタフ様は、その目録を受け取ると、眉一つ動かさずに目を通した。そして、継母に向き直り、極めて事務的な声で問いかけた。
「奥様。この目録にある品々は、どのような資金でご購入なさいましたか? 伯爵家の帳簿には、これらの購入に関する記載が一切見当たりませんが」
継母は、扇の向こうで、わずかに目を泳がせた。
「……わたくしの実家から、嫁入りの際に持参した物や、その後に贈られた品々ですわ。何か、問題でも?」
その声は、努めて冷静を装っていたが、ほんの少しだけ上ずっていた。
グスタフ様は、表情を変えずに頷くと、隣に控えていた白髪の老紳士に目配せをした。彼は、王都でも名の知れた宝飾鑑定士だった。
鑑定士は、継母の宝石箱から、ひときわ大きなルビーのネックレスをピンセットでつまみ上げると、単眼鏡を覗き込み、静かに告げた。
「このルビーのカット技法は、ここ五年で流行した新しいものですな。奥様が嫁いでこられた十五年前には、まだ存在しない技術です。また、こちらのドレスの刺繍に使われている銀糸は、昨年、東方から初めて輸入されたばかりの希少品。実家からの贈り物にしては、あまりに時期が合いませんな」
鑑定士の冷静な分析が、継母の嘘を、一枚、また一枚と剥がしていく。
継母は、カッと顔を赤らめた。
「なっ、無礼な! わたくしが、いつ、どこで、何を贈られようと、あなた方にとやかく言われる筋合いはありませんわ!」
「ええ、もちろん、個人的な贈与であれば、何の問題もございません」
グスタフ様は、穏やかにそう言うと、調査団が別の部屋から押収してきた、山のような書類の束へと歩み寄った。そして、その中から、数枚の羊皮紙をこともなげに抜き出した。
「ですが、奥様。これらの品々が、贈与ではなく、借金の担保として購入されたものであるならば、話は別です」
グスタフ様が、その羊皮紙を、継母の目の前のテーブルに、一枚ずつ、ゆっくりと並べていく。
それは、複数の商会の印が押された、借用証書だった。
継母の顔から、急速に血の気が引いていくのが、私にははっきりと見えた。
「そ、そんなもの……わたくしは、存じませんわ! 誰かがわたくしを陥れるために用意した、偽物に違いありません!」
「偽物、ですかな?」
グスタフ様は、冷ややかに繰り返した。
「ここに記されている署名は、紛れもなく奥様ご自身の筆跡。筆跡鑑定も済んでおります。そして、貸主は、いずれも王都で悪名高い高利貸しや、いわくつきの商会ばかり。まともな貴族が決して関わりを持たぬ相手です」
グスタフ様は、一番上の借用証書を手に取ると、その内容を、部屋中に響き渡る声で、淡々と読み上げ始めた。
「『債務者、ラトクリフ伯爵夫人は、金貨五千枚を借り入れる。その返済を保証する担保として、以下を提示する』……」
グスタフ様は、そこで一度言葉を切り、継母の目をまっすぐに見据えた。
そして、宣告するように、続けた。
「『――担保、娘レティシア・ラトクリフが、将来にわたってラトクリフ伯爵家に供給するであろう、魔力の期待価値、及び、その身柄に関する一切の権利』」
部屋が、水を打ったように静まり返った。
私も、息をのんだ。
知っていたはずだった。この人たちが、私を道具としか見ていないことは。
だが、その想像を、現実は遥かに超えていた。
私の存在そのものを。私の未来を。まだ生まれてもいない価値を。この人は、自分の見栄を飾るための宝石やドレスと引き換えに、悪徳商会へ売り渡していたのだ。
継母は、わなわなと唇を震わせ、もはや言葉にならない喘ぎを漏らしている。
その時だった。
それまで、まるで人形のように動かなかった父が、ゆっくりと顔を上げた。
その虚ろだった目に、初めて、感情らしき光が宿っていた。信じられない、というような、絶望的な光が。
「……お前……何を……」
父のかすれた声が、静寂を破った。
彼ですら、知らなかったのだ。妻が、家の未来を、娘の命を、自分の虚飾のために切り売りしていたことを。
壁際に立つ家臣たちも、愕然としていた。彼らが忠誠を誓い、仕えてきた家の奥方が、その根幹を腐らせる最大の裏切り者だったという事実に、言葉を失っている。
グスタフ様は、そんな室内の惨状には一切頓着せず、冷徹な事務手続きを続ける。
彼は、継母が作った借用証書の束を、ラトクリフ家の資産目録の、分厚い「負債」の項目の一番上に、静かに追加した。
「これらの個人的な負債も、ラトクリフ家の総負債として、正式に計上いたします。異論は、ございませんね」
その言葉が、最後の引き金となった。
継母の膝が、がくりと折れた。彼女は、長椅子から崩れ落ち、床に両手をついた。その姿は、もはや貴婦人としての威厳など、一片も残ってはいなかった。
彼女を飾り立てていた、美しいドレスの絹鳴りの音。手首や指で輝いていた宝石の冷たい光。その全てが、今や、彼女を地の底へ引きずり込む、重い、重い鎖に変わってしまった。
私は、その光景を、最後まで静かに見つめていた。
私の心には、同情も、憎しみも、もはや湧き上がってこなかった。
ただ、起こるべくして起こった事実を、この目に焼き付けているだけだった。
記録係の調査官が、ペンを走らせる、カリカリという乾いた音だけが、部屋に響いていた。




