第82話 奴隷契約という名の請求書
床に崩れ落ちた父は、しばらくの間、虚ろな目で虚空を見つめていた。
応接室の空気は、まるで固まってしまったかのように動かない。後ろに控えるラトクリフ家の家臣たちは、先ほどまでの動揺を隠せないまま、主の無様な姿と、静かに佇む私たちを交互に見ている。誰も、一言も発することができなかった。
やがて、父の喉から、獣が唸るような低い声が漏れた。
「……まだだ」
彼は、テーブルの脚に震える手をつき、ゆっくりと、しかし確かな憎悪をその目に宿して、再び立ち上がった。その顔は土気色だったが、瞳の奥だけが、不気味な光を放っている。
「まだ、終わってはおらん……!」
父は、よろめきながら自身の席の後ろにある飾り棚へ向かうと、その引き出しを乱暴に開け、中をかき回した。そして、一枚の、古びて黄ばんだ羊皮紙を掴み取ると、こちらへ戻ってきた。
バン、と鈍い音が響く。
父が、その羊皮紙をテーブルの中央に叩きつけた音だった。
「これを、見ろ!」
父の金切り声が、部屋中に響き渡った。
「お前が、この家を出ていく前にサインしたものだ! 忘れたとは言わせんぞ!」
私は、その羊皮紙に視線を落とした。
見覚えがあった。それは、私が十五歳の時に、無理やり署名させられたものだ。
『魔力供給に関する終身契約書』。
そのおぞましい表題が、インクの掠れた文字で記されていた。
父は、勝ち誇ったように、荒い息を吐きながら言葉を続けた。
「この契約書には、こう書いてある!『乙、レティシア・ラトクリフは、その生涯を終えるまで、甲、ラトクリフ伯爵家の要請に応じ、魔力を供給する義務を負う』! これは、神殿の公証人が立ち会った、法的に絶対的な効力を持つ契約書だ!」
父の言葉に、それまで絶望的な顔をしていたラトクリフ家の家臣たちの間に、わずかな安堵の空気が流れた。そうだ、この切り札があったのだ、と。
継母も、扇で隠していた口元に、かすかな笑みを浮かべている。
父は、私を、そして私の隣に座るアレスを、睨みつけた。
「公爵閣下であろうと、この契約は覆せん! レティシアは、死ぬまで我が家の所有物なのだ! さあ、今すぐ、この場で魔力の供給を再開しろ! そうすれば、これまでの無礼は、水に流してやらんでもない!」
完全に、形勢が逆転した。父はそう確信しているのだろう。その顔には、先ほどまでの絶望の色はなく、醜い勝利の確信だけが浮かんでいた。
*
部屋に、再び静寂が訪れた。
しかし、それは先ほどまでの重苦しい沈黙とは違う。父が作り出した、一方的な勝利宣言の後の、不快な静けさだった。
その静寂を破ったのは、私の後ろに控えていたグスタフ様だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がると、テーブルに歩み寄り、父が叩きつけたその契約書を、恭しい手つきで手に取った。
「ほう。これは、これは……」
グスタフ様は、小さな眼鏡をかけ直し、羊皮紙に書かれた文字を、隅々まで丁寧に目で追っていく。その落ち着き払った態度に、父はわずかに眉をひそめた。
「なんだ、その目は。ケチのつけようがあるものか。それは完璧な契約書だぞ」
父が苛立たしげに言うと、グスタフ様は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、その薄い唇の端を、ほんの少しだけ持ち上げて、微笑んだ。
「ええ、ラトクリフ伯爵。あなた様が仰る通りです。これは、実に有効な契約書ですな。特に、この条項が素晴らしい」
グスタフ様は、そう言うと、契約書をテーブルの上に広げ、その末尾の一部分を、長い指でとん、と軽く叩いた。
そこには、他の条文よりも、さらに小さな文字で、びっしりと何かが書き込まれていた。私がサインさせられた時には、ろくに読ませてもらえなかった部分だ。
グスタフ様は、その部分を、朗々と読み上げ始めた。
「『追記事項。本契約が、甲、すなわちラトクリフ伯爵家の都合によって、一方的に破棄、あるいは履行不可能と判断された場合、甲は乙、すなわちレティシア・ラトクリフに対し、契約期間の残余年数分の魔力価値に相当する、懲罰的違約金を支払うものとする』……と、ありますな」
父の顔から、表情が消えた。
グスタフ様は、そんな父の様子には構わず、言葉を続ける。
「さて、伯爵。あなたは、ご自身の娘であるレティシア様を、『厄介払い』として、アレスティード公爵家へ嫁がせました。それは、この『終身契約』の対象者であるレティシア様を、物理的に、そして法的に、ご自身の支配下から手放したことを意味します。つまり、この契約を、ご自身の都合で一方的に破棄したのは、伯爵、あなた様ご自身です」
グスタフ様の声は、どこまでも冷静で、淡々としていた。
しかし、その言葉の一つ一つが、見えない刃となって、父の心臓に突き刺さっていくのが、私には分かった。
グスタフ様は、懐からもう一枚、別の羊皮紙を取り出した。
「よって、この契約書の追記事項に基づき、レティシア様の平均余命から算出した、今後五十一年分の魔力価値を、懲罰的違約金として、ここに正式に請求いたします」
彼は、その羊皮紙を、父の目の前に、ひらりと置いた。
それは、請求書だった。
そこに記された金額の、天文学的な数字の羅列が、私の目にもはっきりと見えた。
「な……」
父の口から、声にならない音が漏れた。
彼が、私を永遠に縛り付けるために作った、最強の鎖。
それが今、彼の首を絞める、最も重いギロチンへと姿を変えた瞬間だった。
父は、その請求書を、震える手で掴んだ。そして、そこに書かれた数字を、何度も、何度も、信じられないというように見返している。
やがて、彼の膝が、がくりと折れた。
今度は、芝居ではなかった。
彼は、声もなく、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。その手から滑り落ちた請求書が、床の上を虚しく滑っていく。
父の目は、何も映していなかった。ただ、大きく見開かれたまま、虚空の一点を、見つめていた。




