第79話 これは、帰郷ではない
翌朝、空は雲一つなく晴れ渡っていた。しかし、空気は冬の初めのように冷たく、肌を刺した。
公爵邸の前庭には、既に出発の準備を整えた一団が静かに整列していた。それは、娘が実家へ帰るための個人的な旅の一行ではなかった。
先頭には、アレスティード家の紋章である、月に向かって咆哮する狼が描かれた旗を掲げた騎士が二人。その後ろに、完全武装の騎士が十名、二列に並んで馬上で待機している。馬の吐く息が、白い霧となって冷たい空気の中に消えていった。
私は、侍女のフィーに手伝われ、最後の身支度を整えていた。
服装は、公爵夫人の地位を示す、濃紺の正装ドレス。その上に、北の厳しい寒さを防ぐための、分厚い毛皮の縁取りがついた黒い旅装用のマントを羽織る。装飾品は一切ない。髪は革紐で一つにきつく束ねた。鏡に映る自分の顔に、感情の色はなかった。
*
私が前庭に姿を現すと、そこにいた全員の視線が、一斉に私に注がれた。
アレスティード公爵は、既に自身の黒い軍馬の隣に立っていた。彼もまた、公務用の簡素だが威厳のある軍装に身を包んでいる。その表情は、いつも通り何も読み取れない。ただ、私の姿を頭の先からつま先まで確認すると、小さく一度だけ頷いた。
彼の隣には、二人の男が控えていた。
一人は、軍医のダニエル先生。彼は、いつもの白衣ではなく、動きやすい革の服を着て、肩から大きな医療鞄を提げている。その目は、これから向かう先で起こるであろう全ての現象を記録しようとする、研究者のそれだった。
もう一人は、初対面の、歳を重ねた男性だった。口を固く結び、その目つきは鋭い。ブランドンから、彼が公爵家の法務官長だと紹介された。彼が抱える革の鞄には、法的な証人として、これから起こる全ての出来事を記録するための羊皮紙とインクが詰まっているのだろう。
家族の元へ向かうのではない。
災害地へ乗り込む、公的な視察団。それが、この一団の正体だった。
私たちは、情に流されるために行くのではない。事実を記録し、法に基づき、問題を処理するために行くのだ。
*
一人の騎士が、私のために葦毛の馬を引いてきた。
私は、彼が差し出した手を取り、鐙に足をかけ、静かに鞍上へ跨った。手綱の革の、冷たくて硬い感触が指に伝わる。
アレスもまた、流れるような動作で自身の馬に跨った。彼は、私と馬を並べると、前方の城門を顎で示した。
言葉は、なかった。
彼が右手を静かに上げると、前庭の重々しい鉄の門が、軋むような音を立ててゆっくりと開かれていく。
門の向こうには、まだ朝霧が残る、静かな領都の道が続いていた。
アレスが、再び手を下ろす。それが、出発の合図だった。
先頭の旗持ちの騎士を筆頭に、馬の蹄の音が、石畳の上で規則正しく響き始める。私たちは、誰一人として振り返ることなく、公爵邸の城門をくぐり抜けた。
道中、会話は一切なかった。
聞こえるのは、馬の蹄の音と、武具の擦れる音、そして、風を切る音だけ。
数時間、私たちはただ黙々と、南へと馬を進めた。
やがて、道の両脇の木々の様子が、わずかに変わり始めた。葉の色が不自然に褪せ、枝の先に、季節外れの白いものが付着している。
ダニエル先生が、馬上から温度計を取り出し、眉をひそめた。
前方を走っていた騎士の一人が、速度を落としてこちらへ戻ってくる。
「閣下、ご報告します。前方に、ラトクリフ伯爵領との境界線が見えました」
私は、手綱を握る手に、無意識に力が入るのを感じた。
視線を上げると、遠くの丘の稜線が、不自然なほど白く見えた。それは、雪ではない。もっと硬質で、生命感のない白さだった。
私は、その白い境界線を、ただまっすぐに見つめていた。




