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第7話 礼法の炎上と執事長の天秤

 兵舎での炊き出しは大成功に終わった。屋敷に戻る馬車の中で、私の心は温かい達成感で満たされていた。兵士たちのあの笑顔、活気の戻った食堂の熱気。私のやっていることは、間違っていない。その確信が、私を強く支えていた。

 しかし、屋敷の重厚な扉をくぐった瞬間、その温かい空気は冷たい刃に変わった。

 すれ違うメイドたちは、私を見るとさっと目を伏せ、足早に通り過ぎていく。廊下の角から、ひそひそと交わされる会話が聞こえてきた。

「聞いた?奥様、兵舎で炊き出しなんて、はしたないことをなさったそうよ」

「まあ……。公爵家の品位が疑われるわ」

「南方の、しかも没落寸前の伯爵家のご出身だもの。北方の厳格な礼法など、ご理解できないのよ」

 噂の火の回りは、驚くほど速かった。炊き出しの成功という事実は、家令とその取り巻きの手によって、「出しゃばりな奥方が家の品位を汚した」という物語に、巧みにすり替えられていたのだ。

 フィーは私の隣で悔しそうに唇を噛んでいたが、私は何も言わなかった。ここで感情的になるのは、相手の思う壺だ。火種は、もっと大きな場所で、一気に消し炭にしてやる。そう、心に決めていた。



 案の定、翌日の午後には執事長のブランドン様から呼び出しがあった。

 彼の執務室には、すでに家令が待ち構えていた。その顔は、正義の鉄槌を下す前の断罪者のように、硬直している。

「奥方。兵舎での一件、家令から正式な抗議が上がっている」

 ブランドン様は、机の上に置かれた一通の羊皮紙を示しながら、静かに言った。

「執事長殿!これはもはや、黙認できる範囲を逸脱しております!」

 私が口を開く前に、家令が立ち上がって声を荒らげた。

「兵舎の者どもに媚びを売り、公爵家の伝統と品位を地に貶める行為!冷製主義こそが、この北方の厳しさに耐える精神性を示す、アレスティード家が長年守り抜いてきた象徴的な礼法なのです!それを、あのような……あのような、庶民の真似事のような行為で汚すなど、断じて許されることではありません!」

 家令は、顔を真っ赤にして熱弁を振るう。その瞳には、私に対する侮蔑と、自分の信じる秩序が脅かされることへの純粋な恐怖が浮かんでいた。

 ブランドン様は、その剣幕にも動じることなく、私に視線を向けた。

「奥方。あなたの考えを聞こう」

「私の考えは、先日お話しした通りです」

 私は静かに、しかし、はっきりと答えた。

「伝統や礼法は、そこに生きる人々を幸福にするためにあるべきです。人々を不幸にし、力を削ぐだけの伝統は、ただの悪習にすぎません」

「詭弁だ!」と家令が叫ぶ。「あなたに、この北方の何が分かる!温かさなど、ただの軟弱さの現れにすぎん!」

「軟弱、ですか」

 私は、初めて家令の目をまっすぐに見据えた。

「では、お尋ねします。あなたの言う『品位』とは、具体的にどのような利益を、この家にもたらすのですか?」

「なっ……品位とは、利益などという下賤なものではない!誇りそのものだ!」

「誇りだけで、兵士はお腹を満たせますか?士気は上がりますか?」

 私は畳みかける。そして、懐から一通の、丁寧に折り畳まれた手紙を取り出した。

「これは、兵舎の責任者から、今朝、私宛に届いたものです」

 私はその手紙をブランドン様の前に、そっと置いた。

「中には、昨日の炊き出し以降、兵士たちの訓練への参加態度が明らかに改善され、士気が目に見えて向上した、という報告が、具体的な数字と共に記されています。また、兵士たちからの感謝の言葉も」

 家令が、信じられないという顔でその手紙を睨みつける。

「私は、感情論で話しているのではありません。数字と、結果で話しています。家令、あなたの言う『品位』と、私が提示した『兵士の士気向上』。家の利益という観点から見て、どちらが重要か。お答えいただけますか」

 執務室に、重い沈黙が落ちた。家令は、わなわなと唇を震わせているだけで、反論の言葉を見つけられないでいた。



 すべての視線が、執事長のブランドン様に注がれていた。

 彼の天秤が、今、どちらに傾くのか。この部屋にいる誰もが、固唾をのんで見守っている。

 ブランドン様は、家令からの抗議文と、私が提出した兵舎からの報告書を、ゆっくりと見比べた。その無表情の裏で、激しい思考が巡っているのが伝わってくる。

 やがて、彼は一つの結論に達したようだった。

 彼は、家令からの抗議文を手に取ると、それを破り捨てたりはしなかった。ただ、静かに机の引き出しにしまい込んだ。それは、彼の家令に対する、最後の配慮だったのかもしれない。

 そして、彼は私に向き直り、重々しく口を開いた。

「家令。あなたの主張は理解する。家の伝統を守ろうとするその忠誠心は、評価に値しよう」

 その言葉に、家令の顔にわずかな希望の色が浮かぶ。だが、ブランドン様の次の言葉が、その希望を無慈悲に打ち砕いた。

「だが、奥方の行動には、明確な『利』がある」

 はっきりと、彼はそう言った。

「規律とは、家を護るためにある。伝統とは、家を未来へ繋ぐためにある。それらが家の力を削ぐ足枷となっているのなら、見直すのが我々の務めだ」

 ブランドン様は立ち上がると、私の隣にまで歩み寄った。

「この件は、私が預かる。これ以上、奥方の行動を妨害するような真似は許さん」

 それは、最終通告だった。

 家令は、顔面蒼白のまま、がっくりと肩を落とした。彼はもはや何も言えず、力なく一礼すると、夢遊病者のような足取りで執務室から出て行った。

 彼の去った部屋で、私は一人、静かに息を吐く。

 ブランドン様は、窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと言った。

「……閣下は、最近よく眠れているそうだ。以前は、夜中に何度も目を覚まされていた」

 その言葉は、誰に向けたものともつかなかった。しかし、私には、それが彼なりの最大の賛辞であることが分かった。

 礼法という名の、分厚い壁。

 その壁の向こう側から、確かに、私を認める声が聞こえた気がした。

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