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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第78話 砕け散った期待

 伝令兵が戻ったのは、昼食の鐘が鳴る少し前のことだった。

 馬の蹄の音が城門に響いたという知らせを受け、私はアレスティード公爵と共に、彼の執務室で兵士の到着を待った。テーブルの上には、手つかずの紅茶が二つ、静かに湯気を立てている。

 やがて、重い扉がノックされ、執事長のブランドンに促されて、一人の若い兵士が入室した。彼は旅の汚れでくすんだ軍服のまま、私たちの前で直立不動の姿勢をとる。その顔には疲労の色が濃いが、瞳には任務を遂行した者だけが持つ、鋭い光が宿っていた。

 「報告します」

 兵士の低い声が、静かな執務室に響いた。

 私は、彼から視線を外さなかった。アレスもまた、机に肘をつき、指を組んだまま、黙って報告に耳を傾けている。



 「ラトクリフ伯爵邸に到着したのは、日の出から一時間後。屋敷の周囲は、報告にあった通り、異常な冷気に包まれておりました。門番はおらず、門は半開きで、庭は荒れ放題でした」

 兵士は、見たままの光景を、感情を交えずに淡々と述べていく。

 「応接室に通され、ラトクリフ伯爵令夫人に、奥様からの見舞いの品であると木箱をお渡ししました。伯爵閣下の姿は、ありませんでした」

 兵士はそこで一度、言葉を切った。

 「令夫人は、最初、訝しげな顔で箱を眺めておりましたが、私が中身をご説明し、奥様直筆のマニュアルをお見せした瞬間、その表情が変わりました」

 私は、ティーカップを持つ指先に、意識を集中させた。震えは、ない。

 「令夫人は、マニュアルをひったくるように手に取ると、数行読んだだけで、それを床に叩きつけました。そして、こう叫ばれました」

 兵士は、私の顔をまっすぐに見つめ、記憶した言葉を正確に再現した。

 「『ふざけないで! こんなもので、あの子が治るはずがないでしょう!』と」

 執務室の空気が、さらに冷たくなる。

 「続けて、令夫人は木箱の中身を床にぶちまけました。布袋に入った材料が、床の絨毯の上に散らばりました。そして、ミスリルの保温ポットを手に取り、こう仰いました」

 兵士の声は、変わらず平坦だった。

 「『あの子は道具じゃないのよ! レティシア、あなた自身を寄越せと言っているの!』」

 その言葉を聞いた瞬間、私の隣で、アレスの指が、机の上でギリ、と音を立てた。

 私は、無表情のまま、報告の続きを促す。

 「それで?」

 「はい。令夫人は、その言葉と共に、保温ポットを、暖炉の大理石の縁に、力任せに叩きつけました」

 兵士は、目を伏せることなく、続ける。

 「大きな金属音が響き、ポットは見るも無残にへこみ、中からミルク粥が飛び散りました。甘い香りが、部屋に広がりました」

 私の脳裏に、その光景が鮮明に浮かび上がる。私が丁寧に磨き上げた、銀色のポット。セシリアのために煮込んだ、温かいミルク粥。

 「その後、令夫人は床に散らばった材料の袋を一つ一つ拾い上げると、燃え盛る暖炉の火の中へと、次々に投げ込みました。カモミールの葉が燃える、乾いた音がしました。シナモンの焦げる、刺激的な匂いがしました」

 兵士の報告は、そこで終わった。

 彼は、再び直立不動の姿勢に戻り、私たちの言葉を待っている。



 執務室に、重い沈黙が落ちた。

 暖炉の薪が、パチリ、と音を立ててはぜる。その音だけが、やけに大きく聞こえた。

 私は、自分の心の中を観察していた。

 悲しみは、なかった。怒りも、なかった。

 ただ、心の奥底にあった、ほんの僅かな、小さな、温かい場所が、すうっと冷えていくのを感じただけだった。最後の期待という名の、小さな灯火が、静かに消えていく。

 これで、もう、何も残ってはいない。

 私は、ゆっくりとティーカップをソーサーに戻した。

 カチャリ、という硬質な音が、沈黙を破った。

 私は立ち上がり、報告を終えた兵士に向き直った。

 「ご苦労様でした。下がって、ゆっくり休みなさい」

 「はっ」

 兵士は一礼し、静かに部屋を退出していった。

 私は、扉が閉まるのを見届けると、次に、部屋の隅で控えていたブランドンの方へ向き直った。

 私の瞳には、もう何の感情も映ってはいなかった。

 「ブランドン」

 「は、はい」

 「出発の準備を。最終確認に入ります」

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