第78話 砕け散った期待
伝令兵が戻ったのは、昼食の鐘が鳴る少し前のことだった。
馬の蹄の音が城門に響いたという知らせを受け、私はアレスティード公爵と共に、彼の執務室で兵士の到着を待った。テーブルの上には、手つかずの紅茶が二つ、静かに湯気を立てている。
やがて、重い扉がノックされ、執事長のブランドンに促されて、一人の若い兵士が入室した。彼は旅の汚れでくすんだ軍服のまま、私たちの前で直立不動の姿勢をとる。その顔には疲労の色が濃いが、瞳には任務を遂行した者だけが持つ、鋭い光が宿っていた。
「報告します」
兵士の低い声が、静かな執務室に響いた。
私は、彼から視線を外さなかった。アレスもまた、机に肘をつき、指を組んだまま、黙って報告に耳を傾けている。
*
「ラトクリフ伯爵邸に到着したのは、日の出から一時間後。屋敷の周囲は、報告にあった通り、異常な冷気に包まれておりました。門番はおらず、門は半開きで、庭は荒れ放題でした」
兵士は、見たままの光景を、感情を交えずに淡々と述べていく。
「応接室に通され、ラトクリフ伯爵令夫人に、奥様からの見舞いの品であると木箱をお渡ししました。伯爵閣下の姿は、ありませんでした」
兵士はそこで一度、言葉を切った。
「令夫人は、最初、訝しげな顔で箱を眺めておりましたが、私が中身をご説明し、奥様直筆のマニュアルをお見せした瞬間、その表情が変わりました」
私は、ティーカップを持つ指先に、意識を集中させた。震えは、ない。
「令夫人は、マニュアルをひったくるように手に取ると、数行読んだだけで、それを床に叩きつけました。そして、こう叫ばれました」
兵士は、私の顔をまっすぐに見つめ、記憶した言葉を正確に再現した。
「『ふざけないで! こんなもので、あの子が治るはずがないでしょう!』と」
執務室の空気が、さらに冷たくなる。
「続けて、令夫人は木箱の中身を床にぶちまけました。布袋に入った材料が、床の絨毯の上に散らばりました。そして、ミスリルの保温ポットを手に取り、こう仰いました」
兵士の声は、変わらず平坦だった。
「『あの子は道具じゃないのよ! レティシア、あなた自身を寄越せと言っているの!』」
その言葉を聞いた瞬間、私の隣で、アレスの指が、机の上でギリ、と音を立てた。
私は、無表情のまま、報告の続きを促す。
「それで?」
「はい。令夫人は、その言葉と共に、保温ポットを、暖炉の大理石の縁に、力任せに叩きつけました」
兵士は、目を伏せることなく、続ける。
「大きな金属音が響き、ポットは見るも無残にへこみ、中からミルク粥が飛び散りました。甘い香りが、部屋に広がりました」
私の脳裏に、その光景が鮮明に浮かび上がる。私が丁寧に磨き上げた、銀色のポット。セシリアのために煮込んだ、温かいミルク粥。
「その後、令夫人は床に散らばった材料の袋を一つ一つ拾い上げると、燃え盛る暖炉の火の中へと、次々に投げ込みました。カモミールの葉が燃える、乾いた音がしました。シナモンの焦げる、刺激的な匂いがしました」
兵士の報告は、そこで終わった。
彼は、再び直立不動の姿勢に戻り、私たちの言葉を待っている。
*
執務室に、重い沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、パチリ、と音を立ててはぜる。その音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は、自分の心の中を観察していた。
悲しみは、なかった。怒りも、なかった。
ただ、心の奥底にあった、ほんの僅かな、小さな、温かい場所が、すうっと冷えていくのを感じただけだった。最後の期待という名の、小さな灯火が、静かに消えていく。
これで、もう、何も残ってはいない。
私は、ゆっくりとティーカップをソーサーに戻した。
カチャリ、という硬質な音が、沈黙を破った。
私は立ち上がり、報告を終えた兵士に向き直った。
「ご苦労様でした。下がって、ゆっくり休みなさい」
「はっ」
兵士は一礼し、静かに部屋を退出していった。
私は、扉が閉まるのを見届けると、次に、部屋の隅で控えていたブランドンの方へ向き直った。
私の瞳には、もう何の感情も映ってはいなかった。
「ブランドン」
「は、はい」
「出発の準備を。最終確認に入ります」




