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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第77話 善意という名の刃

 アレスティード公爵の印章が押された最後通牒は、嵐の中を駆けていった最速の伝令兵によって、夜明け前にラトクリフ伯爵家へ届けられた。

 返答の使者が戻るまで、半日ほどの猶予がある。

 屋敷の中は、私の指示がなくとも、ブランドンとフィーが中心となり、いつでも出発できるよう、慌ただしく準備が進められていた。騎士団の武具が擦れる音、法務官たちが資料をまとめる紙の音、侍女たちが携帯食糧を荷造りするざわめき。その全てが、これから始まる戦いの序曲のように聞こえた。

 だが、私はその喧騒の中心にはいなかった。

 私は、厨房にいた。

 いつものように白いエプロンを締め、髪をきつく結い上げる。そして、巨大な調理台の上に、様々な道具と材料を並べ始めた。

 「奥様、そのようなことは我々が…」

 フィーが心配そうに声をかけてくるが、私は静かに首を横に振った。

 「これは、私にしかできない仕事です」

 これから作るのは、兵士たちのための食事ではない。たった一人を、そして、その周囲の人間たちの本性を試すための、特別な処方箋だった。



 私がまず手に取ったのは、公爵家の宝物庫から特別に運び出させた、一つのポットだった。

 銀色に鈍く輝くそれは、魔法金属ミスリルでできており、一度注いだ液体の温度を、丸一日は保つことができるという最高級品だ。私はそれを、丁寧に布で磨き上げる。

 次に、調理台の上に、いくつもの薬草とスパイスを並べた。

 鎮静作用のあるカモミール、血行を促進するシナモン、そして精神を安定させるバレリアンの根。私はそれらを、天秤を使って一ミリグラムの狂いもなく正確に計量し、乳鉢で丁寧にすり潰していく。ごく微量の、しかし確かな効果を持つ、特製の粉末だ。

 「フィー、最高級のミルクと、一番消化の良いオートミールを持ってきてください」

 私の指示に、フィーは戸惑いながらも、すぐに指示されたものを持ってきた。

 私はそれらの材料を使い、私が書き上げた『鎮静プロトコル』の第一章、『食事療法』に記した通りの手順で、甘いミルク粥を煮込み始めた。鍋の縁が、レシピ通りにふつふつと泡立つ。厨房に、優しい香りが満ちていく。

 しかし、これは現地で作るための予行演習ではない。

 「奥様、一体、これをどうなさるのですか?」

 私の意図が読めず、フィーは不安そうな顔で尋ねた。

 私は、鍋をかき混ぜる手を止めずに答える。

 「私たちが現地へ赴く前に、これを先行して実家へ送るのです」

 「これを…ですか?」

 「ええ。このミルク粥と、誰でも同じものが作れる材料一式、そして、私が作ったマニュアルの簡易版を添えて」

 私は、あらかじめ用意しておいた、頑丈な木箱を指さした。

 「私はそれを、『温療キット』と名付けました」

 私の言葉に、フィーは息をのんだ。彼女は、私の本当の狙いに気づき始めたようだった。



 温療キットの準備は、着々と進んでいった。

 完成したミルク粥は、ミスリルの保温ポットへ。

 精密に計量された材料は、一つ一つ小さな布袋に入れ、番号を振る。

 そして、マニュアル。私が三日三晩かけて書き上げた専門的なものではなく、もっと単純で、誰にでも理解できるように、手順をイラストで描いた簡易版だ。『1番の袋と2番の袋を鍋に入れ、牛乳をここまで注ぎ、弱火で10分』というように。

 全ての準備が整い、それらを丁寧に木箱に詰めていると、厨房の入り口に、静かな影が立った。

 アレスティード公爵だった。

 彼は、腕を組んで入り口の柱に寄りかかり、黙って私の作業を見ていた。その表情からは、感情が読み取れない。

 「……出発の準備は、整いつつある」

 彼が、静かに口を開いた。

 「ご苦労様です、閣下」

 私は、手を止めずに答える。

 「ラトクリフ伯爵からの返答が来次第、いつでも発てる。だが、お前は、ここで何をしている」

 彼の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。私が、出発前の貴重な時間を、こんな不可解な作業に費やしていることが、理解できないのだろう。

 私は、木箱に最後の緩衝材を詰めると、ゆっくりと立ち上がり、彼に向き直った。

 「最後の、賭けをしています」

 「賭け?」

 「はい」

 私は、完成した木箱の蓋を撫でながら、静かに説明を始めた。

 「もし、父と継母が、心の底からセシリアのことを案じているのなら。もし、彼らに、ほんの少しでも娘への愛情が残っているのなら。彼らは、このキットを使って、必死にセシリアを看病するはずです」

 私の言葉を、アレスは黙って聞いている。

 「そうすれば、私たちが到着する前に、セシリアの状態は、ほんの少しでも安定するかもしれない。それは、交渉を有利に進めるための、一つの材料になります」

 「……だが」

 アレスが、低い声で遮った。

 「もし、そうではなかったら?」

 彼の問いに、私は、ふっと息を吐いた。

 「もし、彼らが求めているのが、セシリアの救済ではなく、私という便利な道具の支配であるならば……」

 私は、そこで一度言葉を切った。

 そして、木箱の蓋を、ゆっくりと、しかし確かな音を立てて、閉じた。

 「この善意の塊は、彼らの本性を暴くための、何よりの証拠となります」

 厨房に、沈黙が落ちる。

 アレスは、私の真意を、完全に理解したようだった。彼の瞳から、苛立ちの色が消え、代わりに、冷徹な領主としての光が宿っていた。

 これは、慈悲ではない。テストなのだ。

 彼らが、家族としての最後の情を持っているのか、それとも、ただの強欲な支配者でしかないのかを、見極めるための。



 私は、ブランドンを呼び、公爵家の伝令兵の中でも、最も速く、そして最も観察眼の鋭い者を選ぶよう指示した。

 すぐに、一人の若い兵士が、私の前に現れた。

 私は、彼に完成した木箱を手渡す。ずしりと重い、善意と、悪意の塊を。

 「これを、ラトクリフ伯爵へ。私の個人的な見舞いの品だと伝えなさい」

 「はっ」

 「そして、あなたの本当の任務は、ここからです」

 私は、彼の目をまっすぐに見つめて、厳命した。

 「この箱を受け取った後の、伯爵と、その夫人の反応を、一挙手一投足、その言葉の一つ一つまで、詳細に観察し、記憶しなさい。そして、誰にも気づかれぬよう、ただちに帰還し、私に報告すること。良いですね?」

 「御意に」

 兵士は、力強く頷くと、木箱を慎重に抱え、厨房を後にしていく。

 私は、アレスと共に、城門まで彼を見送りに出た。

 嵐は過ぎ去っていたが、空はまだ暗く、地面はぬかるんでいる。伝令兵は、軽装の馬に跨ると、私たちに一礼し、夜明け前の闇の中へと、勢いよく駆けていった。

 蹄の音が、遠ざかっていく。

 私は、その姿が見えなくなるまで、城門の石畳の上に立ち尽くしていた。

 私の表情に、感情はなかった。ただ、静かに、結果を待つだけだった。

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