第76話 公爵夫人の最後通牒
嵐の轟音と、暖炉の薪がはぜる音。
その二つだけが支配するホールで、私はアレスティード公爵と静かに対峙していた。彼の背後では、燃え盛る炎がその硬質な横顔を赤く照らし出している。その瞳に宿るのは、ラトクリフ伯爵への燃えるような怒りと、私をこの場から一歩も動かすまいとする、頑ななまでの庇護欲だった。
彼の気持ちは、痛いほど分かる。
だが、もう、守られているだけの私ではいられない。
私は、彼の視線をまっすぐに受け止めながら、静かに、しかしはっきりと、口を開いた。
「閣下」
私の声は、自分でも驚くほど、穏やかで、澄んでいた。
「先ほどの私の言葉、どうかお忘れくださいまし。私は、一人では行きません」
その言葉に、アレスの瞳がわずかに揺らぐ。彼の肩から、ほんの少しだけ力が抜けるのが分かった。私が、ついに折れたと思ったのだろう。
だが、私は言葉を続けた。
「ラトクリフ家の娘、レティシアとして、実家へ帰るのではありません」
私は、背筋を伸ばし、一歩前に出た。そして、公爵夫人として、臣下が主君に許しを乞うように、しかしその声には揺るぎない意志を込めて、言った。
「アレスティード公爵夫人として、閣下にお願い申し上げます。我が領に隣接するラトクリフ伯爵領にて、大規模な魔力災害が発生いたしました。領民の安全を脅かすこの脅威に対し、私が現地へ赴き、事態を収拾するための全権を、どうかお与えください」
執務室の空気が、凍り付いた。
アレスの瞳が、驚きに見開かれる。彼の隣に控えていたブランドンも、息をのむのが分かった。
私は、問題をすり替えたのだ。
これは、娘が実家を救うための、私的な感傷旅行などではない。アレスティード公爵領の安寧を守るための、公的な災害派遣である、と。
「……何、を」
アレスが、かすれた声で呟く。
「父からの、あの脅迫状が、大義名分を与えてくれました」と、私は続けた。「彼は、この災害の責任を、アレスティード家に押し付けると宣言した。ならば、我々が主体的に介入し、問題を解決し、その上で、責任の所在を法の下で明らかにする。これ以上の正当な理由が、ございましょうか?」
私の言葉は、もはや感情の産物ではなかった。それは、法と論理で武装した、冷徹な交渉の言葉だった。
アレスは、しばらくの間、言葉を失ったように私を見つめていた。彼の瞳の中で、怒りと、驚きと、そして、私の真意を測ろうとする理性が、激しくせめぎ合っているのが見えた。
やがて、彼は長い沈黙を破り、低い声で尋ねた。
「……お前の、狙いは何だ」
「交渉です」と、私は即答した。「助けを乞う者と、それに応える者、という歪んだ関係ではありません。対等な、いえ、こちらが圧倒的に優位な立場からの、交渉です」
私は、ブランドンに向き直った。
「ブランドン。書記官を。今から、ラトクリフ伯爵へ送る公式な通達書を作成します」
ブランドンは、一瞬アレスの顔色を窺ったが、アレスが何も言わないのを見ると、深く一礼し、静かに部屋を出て行った。
私は、再びアレスに向き直る。
「これから私が突きつけるのは、アレスティード公爵家からの、最後通牒です」
*
すぐに戻ってきた書記官が、暖炉の前のテーブルで羊皮紙を広げ、ペンをインクに浸す。私は、その横に立ち、燃え盛る炎を見つめながら、口述を始めた。その声は、嵐の夜の静寂に、凛と響いた。
「ラトクリフ伯爵閣下へ。貴殿の領地にて発生中の魔力災害、並びに、我がアレスティード家に対する脅迫状、確かに拝受した。事態の緊急性に鑑み、我が方より、以下の三つの条件を以て、事態収拾への協力を提案する」
私は、指を一本ずつ折りながら、条件を告げる。
「一つ。現場における全ての指揮権を、我が全権大使、レティシア・アレスティードに完全に委譲すること」
「二つ。貴殿並びに令夫人、その他全ての関係者は、我が方の治療方針に一切の干渉をせず、指定された区域より即刻、退去すること」
「そして、三つ。事態収拾後、今回の災害によって生じた全ての損害の責任の所在を明らかにするため、我が方の指定する場所にて、法的な協議の場を設けることを、ここに誓約すること」
私は、そこで一度言葉を切った。
書記官のペンが、カリカリと羊皮紙の上を走る音だけが聞こえる。
「以上。この三つの条件を、日の出までに受諾する旨の返答がなき場合、我が方は、貴殿の脅迫状を王国へ提出し、ラトクリフ伯爵家による敵対行為と見なし、国境を封鎖する」
口述を終えた私は、書記官に「それで結構です」と告げた。
書記官が、震える手で書き終えた羊皮紙を、ブランドンが受け取り、アレスの前に差し出す。あとは、この家の主の署名と、公爵家の印章があれば、この最後通牒は完成する。
アレスは、差し出された羊皮紙に、ゆっくりと視線を落とした。
その横顔は、もはや苦悩の色を浮かべてはいなかった。そこにあるのは、私の覚悟を受け止め、そして、同じ戦場に立つことを決めた、北の支配者の顔だった。
彼は、机の上のペンを取ると、迷いのない、力強い筆跡で、羊皮紙の末尾に自らの名を記した。
そして、机の引き出しから、アレスティード公爵家の紋章が刻まれた、重々しい金の印章を取り出す。彼はそれを、溶かされたばかりの真っ赤な封蝋の上へ押し付けた。




