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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第75話 塔

 アレスティード公爵と私の間の、冷たい戦争は続いた。

 私たちは、食事の席で顔を合わせても、一言も口を利かなかった。カトラリーの触れ合う音だけが、気まずく響き渡る。彼の執務室に業務報告で訪れても、会話は必要最低限の事務的な言葉の応酬に終始した。

 屋敷の空気は、まるで鉛のように重い。侍女たちも、執事長のブランドンでさえも、私たち二人の間に張り詰めた見えない壁を、遠巻きに見ているだけだった。

 私は、彼の許可がないまま、密かに出発の準備を進めていた。小さな革鞄に、最低限の着替えと、そして完成させた『鎮静プロトコル』の冊子を詰め込む。しかし、分かっていた。この屋敷の主である彼の意思に反して、私一人でこの城門を抜けることが、どれほど困難であるかということを。

 膠着した状況を破ったのは、人間ではなく、空だった。

 四日目の夜、空が荒れ狂った。季節外れの嵐が北の山から吹き下ろし、窓ガラスを激しく叩く雨粒と、屋敷全体を揺るがすような風の咆哮が、私たちの沈黙をかき消した。

 私は自室の窓辺に立ち、闇の中で荒れ狂う木々を眺めていた。この嵐が、まるで私の心のようだ、と思った。



 その音は、嵐の轟音の中でも、やけに鮮明に聞こえた。

 ドン、ドン、ドン、と、まるで城門を破ろうとするかのような、必死の叩く音。

 こんな嵐の夜に、一体誰が?

 侍女たちが慌ただしく廊下を行き交う気配がする。やがて、私の部屋の扉が、控えめにノックされた。

 「奥様、夜分に申し訳ございません。お客様が……」

 扉を開けたフィーの顔は、困惑と心配に濡れていた。

 私が彼女に促されて一階の玄関ホールへ向かうと、そこには既にアレスが、厳しい表情で立っていた。

 そして、その視線の先。

 床には大きな水たまりができ、ずぶ濡れで倒れ込むようにして、一人の老婆が荒い息をついていた。侍女たちが慌てて毛布をかけている。

 その顔を見て、私は息をのんだ。

 「……マーサ?」

 かつて、ラトクリフ伯爵家に仕えていた、唯一私に優しくしてくれた侍女。数ヶ月前にこの屋敷で保護した、マーサだった。彼女は、私の紹介で、今は領都の穏やかな宿舎で暮らしているはずだった。なぜ、こんな姿でここに?

 「お嬢様……レティシア、お嬢様……!」

 私の声に気づいたマーサは、震える手を伸ばし、私の服の裾を掴んだ。その顔は恐怖に引きつり、歯の根が合わないほど、ガタガタと震えている。

 「落ち着いて、マーサ。何があったの」

 私がその冷たい手を握ると、彼女は堰を切ったように泣きじゃくりながら、途切れ途切れに叫んだ。

 「お逃げください……! あそこは、もう、人の住む場所ではございません……!」



 暖炉の前に運ばれ、温かいスープでようやく少し落ち着きを取り戻したマーサは、震える声で語り始めた。その内容は、私の想像を遥かに超えて、悪夢的なものだった。

 「セシリアお嬢様が……屋敷の、北の塔を……!」

 彼女の話によれば、数日前からセシリアの魔力暴走は完全に制御を失ったらしい。彼女は屋敷の北塔に一人で立てこもり、その周囲一帯を、巨大な氷の塊で覆ってしまったという。

 「近づく者は、誰であろうと……庭師も、騎士も、皆、一瞬で氷漬けに……。塔からは、ただ、お嬢様の名前を叫ぶ声だけが、不気味に響き渡って……」

 それは、もはや家族の癇癪などではない。一つの領地を脅かす、制御不能な魔力災害そのものだった。

 マーサは、命からがら屋敷を抜け出し、この数日間、飲まず食わずで馬を飛ばし、このアレスティード公爵邸まで知らせに来てくれたのだ。

 そして、彼女は思い出したように、懐から濡れて皺くちゃになった一枚の紙を取り出した。

 「旦那様からの……最後の、ご伝言です」

 それは、父からの言葉だった。しかし、そこに書かれていたのは、懇願ではなかった。

 『すぐに迎えを寄越せ。もし来なければ、貴様が魔力供給を断ったせいでこの災害が起きたのだと、アレスティード家を巻き込んだ国家への反逆者として、王国に正式に訴える』

 脅迫。

 そして、宣戦布告だった。

 部屋の空気が、絶対零度まで凍り付く。

 隣に立つアレスの体から、静かだが、燃えるような怒りの魔力が立ち上っているのを、肌で感じた。彼が、私の肩を庇うように、一歩前に出る。

 だが、私はその腕を、そっと手で制した。

 私の心の中にあった、父への、実家への、最後の、ほんの僅かな情のようなものが、音を立てて砕け散っていくのが分かった。

 恐怖も、同情も、罪悪感も、もうない。

 あるのは、この愚かで、醜い悲劇を、私の手で終わらせなければならないという、氷のように冷たい決意だけだった。

 私は、震えるマーサの手を優しく離すと、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、アレスティード公爵に向き直る。

 彼の氷の瞳が、私をまっすぐに見つめていた。その奥にあるのは、心配と、苦悩と、そして、私の覚悟を問う色。

 私は、その視線から一瞬も目を逸らさず、静かに、しかしはっきりと、口を開いた。

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