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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第74話 守りたい男、終わらせたい女

 完成した『鎮静プロトコル』を手に、私は数日ぶりに安らかな眠りを得た。

 悪夢は見なかった。窓ガラスに霜が降りることもなかった。私の手で過去を終わらせるための、具体的で、論理的な道筋が見えたことで、心は凪いだ海のように静かだった。

 翌日、私はその分厚い冊子を携え、アレスティード公爵の執務室へ向かうつもりだった。これはもはや私個人の問題ではなく、隣接する領地で発生した魔力災害なのだと、彼に報告し、正式な許可を得るために。

 だが、私よりも先に、過去からの使者が到着した。

 執事長のブランドンが、銀の盆に載せて運んできた一通の手紙。差出人の名を見た瞬間、私の凪いでいた心に、さざ波が立った。

 ラトクリフ伯爵。

 そして、宛名は私ではなく、アレスティード公爵閣下となっていた。

 「……閣下にお渡ししてまいります」

 私はブランドンから手紙を受け取り、彼の執務室の扉を叩いた。



 重厚なマホガニーの机に向かっていたアレスは、私が入室すると、ペンを置いて顔を上げた。私が差し出した手紙の差出人を見ると、彼の眉が微かに動く。

 彼は何も言わず、手紙を受け取ると、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。

 私は、彼の正面の椅子に座ることもせず、ただ立ったまま、彼が手紙を読む様子を見つめていた。

 最初は、平坦だった彼の表情が、数行読み進めるうちに、みるみるうちに険しくなっていく。紙をめくる指先に力がこもり、やがて、その動きがぴたりと止まった。彼の肩が、怒りで硬直しているのが、離れていても分かった。

 手紙に何が書かれているかなど、読まなくても想像がつく。

 領地の異常。セシリアの凶行。その全ての責任を私に押し付け、さもなければアレスティード家の名誉に関わると脅し、半狂乱で助けを求める、身勝手な言葉の羅列だろう。

 やがて、アレスは手紙を最後まで読み終えると、それを静かに机の上に置いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。

 彼は私の方を見ない。ただ、まっすぐに暖炉へと歩いていく。

 パチ、と薪がはぜる音が、静かな執務室に響く。

 彼は、机の上に置いた手紙を再び手に取ると、何のためらいもなく、燃え盛る炎の中へと投げ入れた。

 上質な羊皮紙は、一瞬で端から黒く縮れ、父の尊大な筆跡は、赤い舌となって燃え上がり、あっという間に灰へと変わっていった。

 全てが燃え尽きるのを見届けたアレスは、ゆっくりとこちらに振り返った。

 その氷の瞳には、これまで見たことがないほど、冷たく、そして絶対的な拒絶の色が宿っていた。

 「行くな」

 彼の声は、静かだった。それは領主としての命令ではなかった。もっと個人的で、切実な響きを持っていた。

 「……」

 私は、黙って彼の言葉の意味を測る。

 「これは、罠だ。お前を再び、あの搾取の地獄へ引きずり戻すための、卑劣な罠に過ぎん」

 彼は、一歩、私の方へ近づいた。

 「君の戦いは終わった。ここは君の家だ。過去の亡霊に、君をこれ以上苦しませることは、俺が許さない」

 その言葉は、彼の不器用な、しかし紛れもない優しさだった。私を、この安全な場所で、全ての厄介事から守り抜こうとする、彼の強い意志の表れだった。

 胸の奥が、きゅうっと痛む。

 けれど、私は、静かに首を横に振った。

 「いいえ、閣下。行かなければなりません」

 私の答えに、アレスの瞳が、わずかに見開かれた。

 「なぜだ。俺が、全て処理すると言っている」

 「これは、閣下が処理する問題ではないからです」

 私は、彼のまっすぐな視線から、決して目を逸らさなかった。

 「これは、私の手で終わらせなければならない、最後の戦いです。あの家で『いい子』を演じ続けた私が、あの家の歪んだ構造を作り上げた共犯者の一人である私が、全てに決着をつけなければならないのです」

 私は、抱えていた『鎮静プロトコル』の冊子を、強く握りしめた。

 「逃げている限り、私は本当の自由を手に入れることはできません。閣下が作ってくださったこの温かい鳥籠の中で、過去の幻に怯えながら生きるだけです。私は、それが嫌なのです」

 守ることで、愛を示そうとしてくれる男。

 自ら過去と対峙することで、未来を掴もうとする女。

 互いを想っていることは、痛いほど分かる。けれど、その想いの形が、あまりにも違っていた。

 私たちの間に、初めて、冷たくて深い溝が横たわるのを、私は感じていた。

 「……それでも、俺は許可しない」

 アレスの声が、硬くなる。

 「ならば、私は一人でも行きます」

 私の声もまた、同じくらい、硬くなっていた。

 言葉は尽くされ、執務室には、暖炉の薪がはぜる音だけが、気まずく響き渡る。

 アレスの瞳に宿っていたのは、怒りではなかった。それは、守りたいものを守れないと悟った男の、深い、深い苦悩の色だった。

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