第73話 救済ではなく、治療計画
ダニエル先生が退室した後も、私はしばらく執務室の椅子から動けなかった。
机の上には、彼が置いていったカルテの写しが、静かに広がっている。そこに記された一つ一つの症状が、セシリアという名の災害が、今この瞬間も拡大し続けている事実を突きつけていた。
かつての私なら、罪悪感と義務感に苛まれ、ただ衝動的に実家へ駆けつけようとしただろう。「私が何とかしなければ」と、またあの愚かな「いい子」の仮面を被って。
だが、今の私は違う。
アレスティード公爵家に来てからの日々が、私に教えてくれた。感情的な自己犠牲は、救済ではなく、ただの共依存を生むだけだということを。本当の問題解決は、もっと冷静で、もっと論理的で、そして時には、冷徹でさえなければならない。
セシリアに必要なのは、私という特効薬ではない。
依存症の患者から、その依存対象をただ取り上げるだけでは意味がない。必要なのは、依存対象がなくても生きていけるようにするための、体系化された治療なのだ。
私は、新しい羊皮紙を一枚取り出し、インク壺の蓋を開けた。
これから私が書き記すのは、妹への手紙ではない。一つの症例に対する、再現可能な治療計画書だ。
*
私は、書斎に籠った。
フィーが心配して食事を運んできてくれても、最低限のものを口にするだけで、ほとんどの時間を思考と執筆に費やした。
私が目指すのは、セシリアを直接「助ける」ことではない。究極の目標は、「誰でもセシリアをケアできる」ための、完璧なマニュアルを作り上げること。私の「温導質」という特殊能力に頼らずとも、同じ効果を再現できる普遍的な技術へと、その方法論を落とし込むのだ。
前世で培った、業務マニュアル作成の知識が、今、ここで活きることになるとは、皮肉なものだった。
まず、第一章は『食事療法』。
魔力暴走は、精神的な不安定さに大きく起因する。ならば、心を落ち着かせる効果のある食材が有効なはずだ。私は、公爵家の書庫から薬草学の古書を引っ張り出し、前世のハーブの知識と照らし合わせた。
鎮静作用のあるカモミール、血行を促進し体を温めるシナモン、そして、幸福感を高めると言われるバレリアンの根。それらを少量ずつ配合し、消化が良く、魔力消費の少ない甘いミルク粥に混ぜ込む。
私は、分量、煮込む時間、そして最も効果的な温度まで、誰が作っても同じ味と効能になるよう、精密なレシピを書き記した。火加減は「弱火で、鍋の縁がふつふつと泡立つ程度を保つこと」など、具体的な記述を徹底する。
第二章は『物理療法』。
不安に苛まれる者は、誰かに抱きしめられることで安心感を得る。しかし、セシリアの場合、直接的な肌の接触は、相手から魔力を奪うトリガーになりかねない。
そこで私は、前世の医療知識を応用した。重いブランケットで体を包み込むことで、母親に抱かれているような安心感を与える「加重ブランケット療法」。私は侍女たちに頼み、砂や乾燥豆を詰めた、重さの異なる布袋をいくつも試作させた。そして、セシリアの年齢と体格に最適な重さと、それを体にかけた際の圧力のかけ方まで、図解入りで詳細に説明を加えた。
『注意:決して、直接肌に触れてはならない。必ず、厚手の寝間着の上から、この温熱毛布をかけること』。私は、そう赤インクで書き添えた。
第三章は『環境療法』。
外部からの刺激は、不安定な精神をさらに悪化させる。部屋の環境をコントロールし、精神的負荷を極限まで軽減する必要がある。
窓には、光を遮るための厚手の遮光カーテンを。室温は、常に人体が最もリラックスできるとされる二十二度に。湿度は、喉を乾燥させない六十パーセントに保つこと。そして、不規則な物音を遮断するために、壁際に吸音効果のあるタペストリーを掛けること。
私は、まるで要塞の設計図を描くように、セシリアを外部世界から守るための、完璧な環境設定を書き連ねていった。
*
三日三晩、ほとんど眠らずに書き続けたマニュアルが、ついに完成した。
それは、数十ページに及ぶ、分厚い冊子となっていた。
インクの乾ききっていない最後のページを眺めながら、私は、自分のしていることの本当の意味を、改めて噛みしめていた。
これは、妹を救うための計画書だ。
そして同時に、私自身が、妹のいない未来を生きるための、決別の儀式でもあった。
私の「温もり」は、特別な奇跡などではない。それは、誰にでも再現可能な「技術」なのだ。そう証明することで、私はセシリアの「お姉様だけが頼りなの」という甘えた呪縛から、彼女自身を、そして私自身を、完全に解放するのだ。
私は、完成したマニュアルの表紙に、震える手でタイトルを書き記した。
『魔力過敏症に対する鎮静プロトコル(草案)』
その無機質な響きが、私の覚悟を物語っていた。
窓の外で、夜明けを告げる鳥の声が聞こえる。私は、椅子から立ち上がり、固まった体を伸ばした。
さあ、実験の準備は整った。




