第72話 カルテに記された魂の渇き
悪夢にうなされた翌朝、私は誰よりも早く厨房に立った。
窓ガラスを覆っていた季節外れの霜は、朝日が昇る頃には跡形もなく消えていた。まるで、昨夜の恐怖など全て私の妄想だったと、嘲笑うかのように。
私はその事実から目を逸らすように、無心でパン生地を捏ねた。
力強く叩きつけ、折り畳み、再び叩きつける。繰り返される単純な作業が、思考を麻痺させてくれる。酵母の生きている香りが、昨夜の夢の、死の気配を纏った冷たさを、少しだけ遠ざけてくれた。
「おはようございます、奥様。今日はお早いですね」
出勤してきたフィーが、驚いたように声をかけてくる。
「ええ。少し、目が覚めてしまって」
私は、いつも通りの笑顔を貼り付けて答えた。誰にも、気づかれてはいけない。私の内側で起きている異変を。捨てたはずの過去が、まだ私を蝕んでいることなど、決して。
この穏やかな日常を、私の問題で乱すわけにはいかないのだ。
*
その日の午後、軍医のダニエル先生が、珍しく私の執務室を訪ねてきた。その手には、数冊の分厚いファイルを抱えている。彼の表情は、いつもの穏やかなものではなく、研究者のような険しさと、わずかな興奮が入り混じっていた。
「公爵夫人。少々、お時間をいただけますかな。専門家として、あなたの見解を伺いたい案件がありまして」
「専門家、ですって? 私が、ですか?」
思いがけない言葉に、私は首を傾げる。
「ええ」とダニエル先生は頷き、私の机の上に、持参したファイルを広げた。「『原因不明の低温障害』に関する、専門家として」
その言葉に、私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
広げられたファイルは、医療報告書、いわゆるカルテの写しだった。彼は、そのうちの一枚を指し示す。
「これは、我が領とラトクリフ伯爵領のちょうど境界に位置する、小さな村からの報告です。ここ数週間で、原因不明の農作物の不作が相次いでいる。まるで、土の中から生命力を吸い取られたかのように、作物が育たずに枯れてしまう、と」
彼は、次のページをめくった。そこには、痩せ衰えた家畜の写真が添付されている。
「家畜も同様です。特に、生まれたばかりの子牛や子羊が、次々と衰弱死している。いずれも、特定の病原菌は検出されず、ただ、体温が異常に低いことだけが共通している」
私の背筋を、冷たい汗が伝う。
ダニエル先生は、私の反応には気づかない様子で、最後の、そして最も重要なカルテを私の目の前に置いた。
「そして、これが最も憂慮すべき事態です。人間にも、同様の症状が出始めた」
それは、十代後半の若い女性患者たちの記録だった。
『極度の冷え性』『慢性的な不安症状』『突発的な過換気発作』。羅列された症状は、どれも曖昧で、特定が難しいものばかりだ。しかし、私の目は、カルテの片隅に、問診を担当した医師が走り書きした、患者の訴えのメモに釘付けになった。
『まるで、何かに、体の芯の温もりを吸い取られているみたいだ』
昨夜、私が悪夢の中で感じた感覚、そのものだった。
「ダニエル先生……これは……」
声が、震える。
「広域に及ぶ、魔力災害の初期症状。私はそう見ています」と、先生は断言した。「何者かが、あるいは何かが、その一帯の生命力……マナを、無差別に吸収している。それも、極めて広範囲から、じわじわと」
彼は、眼鏡の奥の鋭い瞳で、私をまっすぐに見つめた。
「公爵夫人。あなたは、ご自身の体質を『温導質』と表現された。触れたものの温度と巡りを整える、と。ならば、その逆の現象についても、何か心当たりがあるのではないか、と愚考した次第です」
心当たり、などという生易しいものではない。
これは、セシリアだ。
私という、唯一無二の「栄養源」を断たれた彼女が、ついに飢餓状態に陥り、その渇きを満たすために、周囲のあらゆる生命から、無差別に温もりを、魔力を、奪い始めているのだ。
彼女は、もはやただの魔力暴走体質ではない。
周囲の全てを凍てつかせ、飲み込んでいく、魔力のブラックホールそのものへと、変貌しつつある。
「……なぜ、若い女性ばかりが、特に強い症状を?」
私は、かろうじてそれだけを尋ねた。
「良い質問ですな」と、ダニエル先生は頷いた。「あくまで仮説ですが、おそらく、生命を育む力が最も強い、若い女性の持つマナが、その『何か』にとって、最も吸収しやすい『栄養』なのでしょう。花で言えば、蜜が最も多い蕾の部分から、先に吸い尽くしていくようなものです」
その言葉は、かつて父と継母が私に言った言葉を、残酷なまでに思い出させた。
『お前は若くて健康だから、セシリアに少し魔力を分けても、すぐに回復するだろう?』
あの頃の私は、ただ一人の妹のために、搾取されるだけの存在だった。
だが、今のセシリアは、見ず知らずの、何の罪もない少女たちの命を、自らの渇きのために蝕んでいる。
「公爵夫人……?」
私が黙り込んだのを、ダニエル先生が訝しげに見つめている。
私は、顔を上げた。私の心は、決まっていた。
「先生。この現象について、一つ、試してみたい仮説があります。ご協力、いただけますか?」
私の声に、個人的な感情はもうなかった。それは、未知の災害に立ち向かう、一人の研究者の声だった。
セシリアは、もはや私の妹ではない。
治療し、そして封じ込めるべき、一つの「災害」なのだ。
机の上に広げられたカルテの文字が、私にその冷徹な決断を迫っていた。




