第71話 幻肢痛
噂戦の嵐が過ぎ去り、アレスティード公爵領には、嘘のような平穏が訪れていた。
市場の壁を醜く汚していた落書きは、子供たちの描いた色とりどりの花の絵に上書きされ、人々の囁き声から棘は消え、代わりに冬祭の計画や、新しくできた温補給所の評判が、温かい湯気と共に立ち上っている。
私の日常もまた、穏やかさを取り戻していた。
朝は厨房に立ち、侍女たちと談笑しながら、その日の献立を決める。昼は執務室で領地の運営に関する書類に目を通し、時には軍医のダニエル先生と兵士たちの栄養改善について議論を交わす。そして夜は、アレスティード公爵と二人きりで、静かな夕食をとる。
会話は相変わらず少ない。けれど、カトラリーが皿に当たる音や、彼がスープを飲むかすかな息遣いが、もう苦痛ではなかった。むしろ、その静寂が、私がこの手で勝ち取った安らぎなのだと、実感できるまでになっていた。
ここは、私の家。私の食卓。もう誰にも、この温かさを奪わせはしない。
そう、思っていたのに。
*
その奇妙な感覚は、ある晴れた日の午後、何の前触れもなくやってきた。
私は中庭のベンチに座り、新しく考案した焼き菓子のレシピをノートに書き留めていた。柔らかな日差しが肩に降り注ぎ、すぐそばの花壇では、フィーが楽しそうに鼻歌を歌いながらハーブの手入れをしている。完璧なまでに、平和な光景だった。
その時、ふっと、体の芯が冷えるような感覚に襲われた。
まるで、自分の内側にあるはずの熱が、見えないストローで不意に吸い上げられたような、空虚な喪失感。それは単なる悪寒とは違う。もっと根源的な、生命力そのものが、一瞬だけ薄まったかのような、不快な感覚。
「……っ」
思わずペンを持つ手が止まり、自分の腕をさする。
「奥様? どうかなさいましたか?」
私の異変に気づいたフィーが、心配そうに駆け寄ってくる。
「いいえ、何でもないの。少し、風が冷たく感じただけ」
私は笑顔でそう答えたが、風など吹いていなかった。空はどこまでも青く、空気は穏やかに澄み渡っている。
気のせいだわ。きっと、少し疲れているだけ。
私はそう自分に言い聞かせ、再びレシピに意識を戻そうとした。しかし、一度感じてしまった奇妙な喪失感の残滓は、しばらくの間、体の奥底にじっとりと留まり続けていた。
*
それからというもの、その感覚は日に日に頻度を増していった。
厨房で煮込み料理の味見をしている時。執事長のブランドンと帳簿の確認をしている時。アレスと夕食の席についている時。穏やかな日常の、全く予期せぬ瞬間に、それは私を襲うようになった。
まるで、失ったはずの手足が、今もそこにあるかのように痛むという「幻肢痛」の話を聞いたことがある。私のこの感覚は、それに似ているのかもしれない。
実家で、異母妹のセシリアに魔力を吸い上げられ続けていた、あの頃の感覚。体の内側から、じわじわと温もりを奪われていく、あの倦怠感と無力感。
物理的には、もう完全に断ち切ったはずの呪縛。けれど、私の体が、心が、まだあの搾取の日々を記憶していて、時折、こんなふうに悲鳴を上げるのだろう。
「奥様、やはり一度、ダニエル先生に診ていただきましょう。最近、お顔の色が優れませんわ」
ついにフィーが、半ば強制的に私を医務室へと連れて行った。
診察室で、私は正直に症状を話した。ダニエル先生は、私の脈を取り、瞳孔の反応を確かめ、聴診器を当てて、長い時間をかけて丁寧に診察してくれた。
しかし、彼の答えは、私の予想通りのものだった。
「うーむ……。脈拍、体温、魔力の循環、いずれも正常の範囲内ですな。身体的な異常は見当たらない。おそらくは、これまでの心労が、少し遅れて出てきているのでしょう。一種の、精神的な疲労かと」
「……そう、ですよね。ありがとうございます、先生」
私は礼を言って、診察室を後にした。
やはり、これは病気ではない。私の過去が生み出した、ただの幻なのだ。そう思うことで、少しだけ安心した。原因が分かれば、対処のしようもある。もっと休息をとり、楽しいことを考えよう。そうすれば、この忌まわしい幻も、いつかは消えてくれるはずだ。
*
だが、私のささやかな希望は、その夜、打ち砕かれた。
私は、夢を見ていた。
凍てつくような暗闇の中に、私は一人で立っている。どこからか、か細い、すすり泣くような声が聞こえる。それは、聞き慣れた、そして聞きたくない声だった。
『お姉様……寒いよ……助けて……』
セシリアの声だ。
やめて。もう、私はあなたの姉ではない。私は自由になったの。
そう叫びたいのに、声が出ない。体が金縛りにあったように動かない。
声は、どんどん近づいてくる。
『どうして、来てくれないの……? お姉様のせいだよ……お姉様が、私を見捨てたから……』
違う。
『寒い、寒い、寒い……!』
その声が耳元で響いた瞬間、氷のように冷たい何かが、私の足首を掴んだ。見ると、闇の中から伸びてきたセシリアの青白い手が、私に纏わりついている。
私は悲鳴を上げ、必死にその手を振りほどこうとする。しかし、その手は離れない。それどころか、私の腕に、肩に、首に、無数の冷たい手が絡みついてくる。
そして、私は気づいてしまった。私の体から、温かい熱が、急速に奪われていくのを。掴まれた場所から、自分の腕が、まるで氷像のように冷たくなっていく感覚。
「……いやっ!」
私は、自分の叫び声で目を覚ました。
心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、呼吸は浅く、速い。
窓の外は、まだ夜明け前の深い闇に包まれていた。ここは公爵邸の、安全な私の寝室。セシリアはいない。大丈夫、ただの悪夢だ。
私は、荒い息を整えながら、ベッドの上で体を起こした。喉がカラカラに渇いている。水を飲もうと、ベッドサイドのテーブルに手を伸ばす。
その時、視界の隅に、何かきらりと光るものが映った。
窓だ。
月明かりを反射して、窓ガラスが白く光っている。私は、吸い寄せられるようにベッドを降り、窓辺へと歩み寄った。
そして、息をのんだ。
窓ガラス一面に、まるで冬の朝のように、美しい霜の結晶が、びっしりと張り付いていたのだ。繊細で、複雑な幾何学模様を描く、完璧な氷のレース編み。
まだ、秋が始まったばかりだというのに。
私は、震える指先で、そっとそのガラスに触れた。指先に伝わるのは、ただの結露ではない、骨の芯まで凍みるような、鋭い冷たさだった。
私の感じていた喪失感は、幻などではなかったのかもしれない。
物理的に切り離したはずの過去が、今もまだ、見えない糸を伝って、この部屋まで、私を追いかけてきている。
窓に描かれた霜の結晶は、その静かな、しかし否定しようのない証拠のように、月光を浴びて冷たく輝いていた。




