第70話 赤く染まった耳
中央広場での歓声が嘘のように、夜の公爵邸は静寂に包まれていた。
昼間の興奮と熱狂は、今はもう遠い。人々はそれぞれの家路につき、温かいスープとパンで一日を締めくくり、今は穏やかな眠りについていることだろう。悪意の嵐は完全に過ぎ去り、この北の地には、私がここに来てから最も平和な夜が訪れていた。
私は、厨房で丁寧に淹れたミルクティーを盆に乗せ、静かな廊下を歩いていた。向かう先は、アレスティード公爵の執務室。噂戦が始まって以来、毎晩のように繰り返してきた、私のささやかな習慣。彼が一人で戦況を分析し、次の手を考えているであろう時間に、温かい飲み物を届ける。ただ、それだけのこと。
執務室の扉を軽くノックすると、中から「入れ」という、いつもより少しだけ疲労の色が滲む声がした。
*
部屋に入ると、彼は机に向かっていなかった。
暖炉の前に一人で立ち、揺らめく炎を静かに見つめている。その広い背中は、領主としての重圧を全て背負っているかのように、大きく、そしてどこか孤独に見えた。
私が盆をサイドテーブルに置く音で、彼はゆっくりとこちらを振り返った。その真剣な瞳が、私をまっすぐに捉える。何か、いつもと違う。彼の纏う空気が、張り詰めているわけではないのに、奇妙な緊張感を帯びていた。
「お疲れ様です、閣下。ミルクティーを」
「……ああ」
彼は短く応えたが、暖炉の前から動こうとはしない。ただ、じっと私を見つめている。その視線に射抜かれ、私はどうしていいか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
沈黙が、部屋に落ちる。パチリ、と暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響いた。
先にその沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「……すまなかった」
予期せぬ言葉だった。
あまりに唐突で、そして彼の口から最も出るはずがないと思われたその一言に、私は思わず目を瞬かせた。聞き間違いだろうか。
「……何が、ですの? 閣下」
私がようやくそう問い返すと、彼は一度、ぐっと唇を引き結んだ。まるで、次に続く言葉を、心の奥底から絞り出そうとしているかのように。
*
「お前を、危険な目に遭わせた」
彼の声は、低く、重かった。
「俺の領地で、俺の民が、お前を傷つけることを許してしまった。……全て、俺の監督不行き届きだ」
私は、息をのんだ。
彼は、謝罪していた。公爵として、この地の絶対的な支配者として、私の身に起きた全ての災厄の責任は自分にあると、そう言っているのだ。その声には、深い悔恨の色が滲んでいた。それは、体面や義務から出る言葉ではない。彼の心の、最も真摯な場所から発せられた、魂の謝罪だった。
彼の不器用な誠実さが、温かい奔流となって、私の胸に流れ込んでくる。
この人は、いつもそうだ。言葉は少ない。表情も乏しい。けれど、その行動と、時折見せる魂の言葉は、どんな雄弁な慰めよりも、私の心を強く打つ。
私は、張り詰めていた空気を壊すように、思わず、ふふっと小さく笑ってしまった。
私の笑い声に、彼はわずかに眉をひそめる。彼にとっては、人生を賭けたほどの真剣な謝罪だったのだろう。
「閣下が、謝ることではありませんわ」
私は、カップを一つ手に取り、彼の前に差し出した。甘く、湯気の立つミルクティーの香りが、二人の間にふわりと広がる。
「それに」
私は、悪戯っぽく片目をつむいでみせた。
「転んでもただでは起きないのが、私の信条ですので。おかげさまで、敵を味方に変える良い機会になりましたわ」
*
私の悪戯っぽい笑みと、予想外の返答に、アレスの氷の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。いや、和らいだというよりは、どう反応していいか分からず、戸惑っているように見えた。
彼は、何かを言おうとして、わずかに口を開きかけた。しかし、結局、適切な言葉が見つからなかったのだろう。何も言えず、少しだけ気まずそうに、ふいと私から視線を逸らした。
その瞬間、私は見てしまった。
暖炉の炎に照らされた彼の耳が、普段の白い肌の色とは明らかに違う、鮮やかな赤色に染まっているのを。




