表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/233

第70話 赤く染まった耳

 中央広場での歓声が嘘のように、夜の公爵邸は静寂に包まれていた。

 昼間の興奮と熱狂は、今はもう遠い。人々はそれぞれの家路につき、温かいスープとパンで一日を締めくくり、今は穏やかな眠りについていることだろう。悪意の嵐は完全に過ぎ去り、この北の地には、私がここに来てから最も平和な夜が訪れていた。

 私は、厨房で丁寧に淹れたミルクティーを盆に乗せ、静かな廊下を歩いていた。向かう先は、アレスティード公爵の執務室。噂戦が始まって以来、毎晩のように繰り返してきた、私のささやかな習慣。彼が一人で戦況を分析し、次の手を考えているであろう時間に、温かい飲み物を届ける。ただ、それだけのこと。

 執務室の扉を軽くノックすると、中から「入れ」という、いつもより少しだけ疲労の色が滲む声がした。



 部屋に入ると、彼は机に向かっていなかった。

 暖炉の前に一人で立ち、揺らめく炎を静かに見つめている。その広い背中は、領主としての重圧を全て背負っているかのように、大きく、そしてどこか孤独に見えた。

 私が盆をサイドテーブルに置く音で、彼はゆっくりとこちらを振り返った。その真剣な瞳が、私をまっすぐに捉える。何か、いつもと違う。彼の纏う空気が、張り詰めているわけではないのに、奇妙な緊張感を帯びていた。

 「お疲れ様です、閣下。ミルクティーを」

 「……ああ」

 彼は短く応えたが、暖炉の前から動こうとはしない。ただ、じっと私を見つめている。その視線に射抜かれ、私はどうしていいか分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。

 沈黙が、部屋に落ちる。パチリ、と暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響いた。

 先にその沈黙を破ったのは、彼の方だった。

 「……すまなかった」

 予期せぬ言葉だった。

 あまりに唐突で、そして彼の口から最も出るはずがないと思われたその一言に、私は思わず目を瞬かせた。聞き間違いだろうか。

 「……何が、ですの? 閣下」

 私がようやくそう問い返すと、彼は一度、ぐっと唇を引き結んだ。まるで、次に続く言葉を、心の奥底から絞り出そうとしているかのように。



 「お前を、危険な目に遭わせた」

 彼の声は、低く、重かった。

 「俺の領地で、俺の民が、お前を傷つけることを許してしまった。……全て、俺の監督不行き届きだ」

 私は、息をのんだ。

 彼は、謝罪していた。公爵として、この地の絶対的な支配者として、私の身に起きた全ての災厄の責任は自分にあると、そう言っているのだ。その声には、深い悔恨の色が滲んでいた。それは、体面や義務から出る言葉ではない。彼の心の、最も真摯な場所から発せられた、魂の謝罪だった。

 彼の不器用な誠実さが、温かい奔流となって、私の胸に流れ込んでくる。

 この人は、いつもそうだ。言葉は少ない。表情も乏しい。けれど、その行動と、時折見せる魂の言葉は、どんな雄弁な慰めよりも、私の心を強く打つ。

 私は、張り詰めていた空気を壊すように、思わず、ふふっと小さく笑ってしまった。

 私の笑い声に、彼はわずかに眉をひそめる。彼にとっては、人生を賭けたほどの真剣な謝罪だったのだろう。

 「閣下が、謝ることではありませんわ」

 私は、カップを一つ手に取り、彼の前に差し出した。甘く、湯気の立つミルクティーの香りが、二人の間にふわりと広がる。

 「それに」

 私は、悪戯っぽく片目をつむいでみせた。

 「転んでもただでは起きないのが、私の信条ですので。おかげさまで、敵を味方に変える良い機会になりましたわ」



 私の悪戯っぽい笑みと、予想外の返答に、アレスの氷の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。いや、和らいだというよりは、どう反応していいか分からず、戸惑っているように見えた。

 彼は、何かを言おうとして、わずかに口を開きかけた。しかし、結局、適切な言葉が見つからなかったのだろう。何も言えず、少しだけ気まずそうに、ふいと私から視線を逸らした。

 その瞬間、私は見てしまった。

 暖炉の炎に照らされた彼の耳が、普段の白い肌の色とは明らかに違う、鮮やかな赤色に染まっているのを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ