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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第69話 毒の根を断つ

 アントンが露天商の親方に弟子入りしてから、数日が過ぎた。

 王都の一流料理人だった男は、今や市場の隅で、泥のついたジャガイモの皮を剥く毎日を送っている。その手つきはまだぎこちないが、彼の横顔に、かつてのような傲慢な色はなかった。彼は、新しい場所で、新しい料理を学び始めていた。

 彼の雪解けは、最後の扉を開けるための、重要な鍵となった。

 私の執務室の机の上には、三つの情報源から集められた、最後の報告書が並べられていた。

 一つは、二重スパイとして働いてくれた、あの若い侍女からのもの。彼女は、弟の治療という希望を得て、見違えるように落ち着き、敵との接触場所や時間の詳細なパターンを、正確に報告してくれた。

 一つは、貧民街の協力者たちからのもの。彼らは、私が提供した仕事と未来への約束に応え、街に紛れ込んだ不審な男たちの顔、名前、そして彼らが頻繁に出入りする寂れた倉庫の場所を突き止めてくれた。

 そして最後の一つが、アントンからもたらされた決定的な証言だった。

 「俺に依頼してきたのは、ボルコフ商会の元番頭を名乗る男だ。金の受け渡しは、いつも港地区にある古い石造りの倉庫で行われた」

 三つの情報が、パズルのピースのように組み合わさり、一つの場所を、明確な黒い点として指し示していた。

 噂戦の黒幕。私をこの地から追い出そうとした悪意の源泉。そのアジトが、ついに特定されたのだ。



 その夜、アレスティード公爵の執務室には、私とブランドン、そして屈強な騎士団長が集められていた。

 机の上に広げられた領都の地図。港地区の石造り倉庫が、赤いインクで丸く囲まれている。

 「……作戦は、夜明けと同時に開始する」

 アレスティード公爵の声は、いつにも増して低く、冷徹だった。それは、私の前で見せる不器用な男のものではなく、幾多の戦場を潜り抜けてきた、北の支配者の声だった。

 「第一隊は正面から陽動、第二隊、第三隊は裏手の運河と屋根から同時に突入し、退路を断つ。抵抗する者は、法に基づき、必要最低限の実力で制圧。ただし、主犯格の男は、必ず生きて捕らえろ」

 彼の指示は、簡潔で、一切の無駄がない。騎士団長は、その言葉の一つ一つに、力強く頷いている。

 私は、その冷徹な作戦会議を、ただ黙って聞いていた。これは、私の領域ではない。厨房が私の戦場であるように、ここは、彼の戦場なのだ。

 やがて、作戦の細部が詰められ、騎士団長が敬礼と共に部屋を出て行った。

 執務室に、暖炉の薪がはぜる音だけが響く。

 「……レティシア」

 アレスが、地図から顔を上げ、私をまっすぐに見た。

 「お前は、奴らをどうしたい」

 その問いは、私に最終的な裁可を委ねるものだった。彼の瞳の奥には、私の望むならば、彼らをこの世から消し去ることさえ厭わないという、危険な光が宿っていた。

 私は、彼の視線から逃げなかった。

 「私が望むのは、復讐ではありません」

 私は、静かに、しかしはっきりとした声で告げた。

 「ただ、彼らが犯した罪を、この領地の法の下で、公正に裁いていただくこと。それだけです」

 情による私刑ではなく、誰もが従うべきルールによる裁き。

 それこそが、私がこの地で築きたいと願う、温かさの土台となるものだった。

 私の答えを聞いたアレスの瞳から、危険な光がすっと消え、代わりに、深い理解の色が浮かんだ。彼は、短く、しかし確かな声で言った。

 「……分かった。約束する」



 夜明け前。東の空が、ようやく白み始めた頃。

 私は、自室の窓から、中庭に整列する騎士団の姿を、静かに見下ろしていた。

 磨かれた鎧が、昇り始めた太陽の光を鈍く反射している。馬の息は白く、剣の柄を握る手には、張り詰めた緊張がみなぎっていた。

 やがて、アレスティード公爵が、黒馬に跨って彼らの前に現れる。彼は、兜の面頬を下ろし、一言も発することなく、ただ静かに、前方を指し示した。

 その合図と共に、蹄の音が、石畳を叩く。音もなく、しかし迅速に、一つの影の集団となって、彼らは城門から出撃していった。

 私の戦いは、終わった。ここからは、彼が私のために戦ってくれる。

 私は、窓枠を握る自分の指先が、祈るように白くなっていることに、初めて気がついた。



 それから、一時間も経たなかっただろうか。

 ブランドンが、私の執務室の扉をノックした。その顔には、安堵と、職務を全うした者だけが持つ、静かな誇りが浮かんでいた。

 「奥様。ご報告いたします」

 彼は、一枚の羊皮紙を、私の前に差し出した。

 「先ほど、港地区の倉庫を急襲。主犯格であるボルコフ商会の元番頭、及びその配下七名を、全員捕縛いたしました。抵抗した者二名が軽傷を負いましたが、死者はおりません」

 私は、深く、安堵の息をついた。

 「倉庫からは、不正に蓄財されたと思われる金貨、及び、奥様を中傷するための、次なる計画書が多数、発見されております」

 ブランドンが差し出したもう一枚の紙は、押収品の目録だった。そこには、私の想像を遥かに超える額の金貨と、宝石、そして、悪意に満ちた言葉で埋め尽くされた、数々の文書の名前が記されていた。

 私は、その目録を手に取り、しばらくの間、そこに記された数字と文字を、ただじっと見つめていた。

 悪意が、金という形になって、ここに積み上げられている。

 「……ブランドン」

 私は顔を上げ、彼に一つの提案をした。



 その日の午後、中央広場には、再び多くの領民が集められていた。

 広場の中心に設けられた演台に、アレスティード公爵が一人で立つ。その姿は、威厳に満ち、誰もが息をのんで、彼の言葉を待っていた。

 「皆に、報告する」

 彼の声が、広場に響き渡る。

 彼は、今回の噂戦の顛末を、一切の感情を交えずに、事実だけを淡々と語った。誰が首謀者で、彼らがどのような罪を犯したのか。そして、今朝、その全員が法の下に捕縛されたことを。

 広場が、安堵と、正義が成されたことへの賞賛のどよめきに包まれる。

 アレスは、その反応を待ってから、続けた。

 「そして、彼らが不正に蓄えたこの財産は、法に基づき、全て没収する」

 彼の合図で、騎士たちが、押収された金貨が詰まったいくつもの木箱を、演台の前に運び込んだ。太陽の光を浴びて、金貨がぎらりと輝く。人々が、ごくりと喉を鳴らした。

 「この金は」

 アレスは、集まった全ての人々の顔を見渡し、そして、はっきりと宣言した。

 「悪意によって生まれたこの金は、この街の未来のために使う。貧民街の住環境を改善し、今回の事件で、金のために心を惑わされた者たちが、再び誇りを持って働けるための、職業訓練所を設立する資金とする!」

 その宣言を聞いた瞬間、広場は、一瞬の静寂の後、これまでで最も大きな、地鳴りのような歓声に包まれた。

 それは、単なる領主への喝采ではなかった。罰を与えるだけでなく、過ちを犯した者さえも救い上げ、未来へと繋げようとする、その温かい裁きへの、心からの感謝と支持の叫びだった。

 私は、その歓声の輪から少し離れた場所で、フィーと共に、その光景を静かに見つめていた。

 悪意から生まれた金が、希望を生み出すための光に変わっていく。

 私の隣に、いつの間にか、演台から降りてきたアレスが立っていた。彼は何も言わない。ただ、私と同じように、歓声を上げる領民たちの姿を、静かに見つめている。

 その横顔に浮かぶ領主としての厳しい表情が、ほんの少しだけ、和らいでいるように見えた。

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