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第6話 一鍋の煮込みと共同体の熱

 兵舎から屋敷に戻った私は、その足で厨房へ向かった。侍女長のフィーと、私のやり方に好意的になってきた数人の料理人たちを集め、計画を打ち明ける。

「三日後、兵舎で炊き出しを行います」

 私の宣言に、その場にいた全員が息を呑んだ。

「奥様、本気でございますか?兵舎の厨房は、あの料理長が仕切っております。我々が行ったところで、協力が得られるとは……」

 一番若手の料理人が、不安げに言った。彼の言う通りだ。正面から乗り込んでも、反発されるだけだろう。

「だから、厨房は借りません。広場を使います。必要な道具と食材は、すべてこちらから運び込みましょう」

「しかし、そのような前例のないことを、家令様がお許しになるはずが……」

「彼の許可は必要ありません」

 私がきっぱりと言うと、厨房の入り口に立っていた人影が、一歩前に進み出た。執事長のブランドン様だった。彼は、いつからそこにいたのだろう。

「……奥方の行動は、あくまで非公式のものだ。よって、公爵家として正式な許可は出せん」

 その言葉に、料理人たちの顔に失望の色が浮かぶ。だが、ブランドン様は続けた。

「だが、兵士の士気向上が『家の利益』に繋がるという見解には、一理ある。よって、止めもしない。食材や荷馬車の使用は、規律の範囲内でなら黙認しよう」

 それは、事実上の後援宣言だった。家令は「公爵家の品位が下がる」と最後まで反対していたらしいが、ブランドン様が「ならば貴殿が兵の士気を上げる代替案を出せるのか」と一蹴したという。

 フィーが、ぱっと顔を輝かせた。

「やります、奥様!いいえ、やらせてください!あの人たちに、本当の料理の味を教えてやりましょう!」

 彼女の言葉に、他の料理人たちの目にも火が灯った。彼らもまた、料理人としての誇りを、家令の支配下で踏みつけにされてきたのだ。私の挑戦は、いつしか彼らの挑戦にもなっていた。



 三日後、兵舎の練兵場脇の広場は、にわか仕立ての野外厨房と化していた。

 屋敷から運び込んだ巨大な鉄鍋が三つ、煉瓦で組んだ即席の竈の上で湯気を立てている。その周りを、私とフィー、そして屋敷の有志たちが、手際よく動き回っていた。

 山のように積まれたジャガイモや人参、玉ねぎ。大樽に入れられた塩漬け肉。そして、屋敷の厨房で焼き上げた、香りの良い麦パン。

 その異様な光景を、非番の兵士たちが、建物の窓や日陰から遠巻きに眺めていた。その視線は、好奇心よりも不信感に満ちている。

「何だありゃ」「貴族の奥様のお遊びか」「どうせ俺たちに見せつけるだけのパフォーマンスだろ」

 風に乗って、そんな囁き声が聞こえてくる。無理もない。彼らはこれまで、何度も期待を裏切られてきたのだろう。

 私は、彼らの視線を気にする素振りも見せず、ただ目の前の作業に集中した。

 大鍋に油を熱し、山のような玉ねぎを炒める。じっくり、じっくりと。甘く香ばしい匂いが立ち上り始めると、遠巻きに見ていた兵士たちの間に、わずかな変化が生まれた。鼻をひくつかせ、匂いの元を探る者。仲間と顔を見合わせ、訝しげに眉をひそめる者。

 玉ねぎが飴色になったところで、塩抜きして角切りにした豚肉を投入する。ジュワッという音と共に、肉の焼ける香りが加わり、匂いの暴力性が一段と増した。兵士たちの腹の虫が、あちこちでぐぅ、と鳴るのが聞こえてきそうだ。

 人参とジャガイモを加え、たっぷりの水と、隠し味の干しキノコの出汁を注ぎ込む。最後に、ハーブの束と岩塩を少し。蓋をすると、あとは時間がすべてを美味しくしてくれる。

 コトコトと、穏やかで力強い音が広場に響く。それは、命を育む音だった。

 額の汗を手の甲で拭いながら、私は鍋の番を続けた。これは、ただの炊き出しではない。冷え切った彼らの心に、温かいものを手ずから届けるための、儀式なのだ。



 昼の鐘が鳴り響く頃、煮込みは完璧に仕上がっていた。

 私が鍋の蓋を開けると、凝縮された旨味の湯気が、ぶわりと空に舞い上がる。トロトロに煮込まれた野菜と、柔らかくなった肉。琥珀色に輝くスープ。

「さあ、配給を始めます!お腹を空かせている人は、お皿を持って並んでください!」

 私の声が、広場に響き渡った。

 最初は、誰も動かなかった。皆、互いの顔色を窺っている。その沈黙を破ったのは、一人の若い兵士だった。彼は意を決したように立ち上がると、おずおずと皿を持って列の先頭に立った。

 それを皮切りに、一人、また一人と、兵士たちが列を作り始める。

 私は笑顔で、一人一人の皿に、熱々の煮込みをたっぷりとよそった。パンを添えるのも忘れない。

 兵士たちは、まだ半信半疑の顔でそれを受け取ると、自分の席に戻っていく。

 そして、最初の兵士が、煮込みを一口、口に運んだ。

 その瞬間、彼の動きが止まった。

 ゆっくりと、もう一口。そして、パンをちぎってスープに浸し、それを頬張る。彼の目が、驚きに見開かれていく。

「……うまい」

 ぽつりと漏れたその一言は、静かな食堂に、不思議なほどよく響いた。

 次の瞬間、食堂の空気が爆発した。

「本当だ、うまいぞ!」「なんだこれ、肉がめちゃくちゃ柔らかい!」「このスープ、味が深い……!」

 あちこちから、堰を切ったような声が上がる。無言で食事を詰め込んでいた昨日までの光景が、嘘のようだ。

「おかわり!」「俺も!」「パンももっとくれ!」

 空の皿を持った兵士たちが、鍋の前に殺到する。その顔には、先ほどまでの不信感など微塵もない。ただ、腹を空かせた若者たちの、純粋な笑顔があった。

 私とフィーたちは、嬉しい悲鳴を上げながら、休む間もなく煮込みをよそい続けた。用意した三つの大鍋は、あっという間に空になった。



 食事が終わる頃には、あれほど冷え切っていた食堂が、熱気と活気に満ちていた。

 兵士たちは、食後の満足感に浸りながら、仲間たちと楽しげに言葉を交わしている。その頬は、運動の後か、食事の熱か、ほんのりと赤く染まっていた。

 私が後片付けを始めようとすると、兵士たちが自然と私の周りに集まってきた。

「奥方様、ごちそうさまでした!」「今まで食った中で、一番うまかったです!」「また、作ってください!」

 不器用だが、心のこもった感謝の言葉が、次々と私に投げかけられる。私はその一つ一つに、「どういたしまして」と笑顔で返した。

 その輪から少し離れた場所で、一人の若い兵士が、仲間と話しているのが聞こえた。

「すげえな、あの奥方様……。俺、貴族ってもっと偉そうで、俺たちのことなんて何とも思ってないんだとばかり……」

「ああ。でも、あの人は違った。俺たちのために、汗水たらして、温かい飯を作ってくれた」

「……なんか、明日からの訓練、いつもより頑張れそうな気がするぜ」

 その言葉を聞いて、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 胃袋を掴むとは、こういうことか。

 それは、ただ空腹を満たすことじゃない。相手の心に、温かい記憶を灯すことなのだ。

 この日、兵舎に生まれた小さな熱は、やがてこの公爵領全体を温める、大きな炎の始まりになる。

 私は、その確かな手応えを感じていた。

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