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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第68話 刺客の雪解け

 広場の後片付けも終わり、街が寝静まる頃、私は侍女のフィーにだけ行き先を告げ、一人で宿舎を抜け出した。ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よい。

 向かう先は、領都で一番騒がしいと評判の酒場だ。露天商や日雇いの労働者たちが、一日の疲れを酒で洗い流すための場所。普段の私なら、決して足を踏み入れることのない世界。

 目当ての人物は、きっとそこにいる。

 昼間の対決で、プライドを粉々に砕かれた料理人。彼は、王都へ逃げ帰るか、あるいは、この街のどこかで独り、屈辱の味を噛み締めているはず。そして、後者である可能性に、私は賭けていた。

 酒場の扉を開けると、むっとするような熱気と、酒と汗の匂い、そして男たちの野太い笑い声が、一斉に私を襲った。場違いな私の登場に、一瞬だけ視線が集まるが、すぐに皆、自分のグラスと仲間との会話に戻っていく。

 私は、その喧騒の中を、目を凝らして進んだ。そして、一番奥の、薄暗い隅のテーブルに、目当ての背中を見つけた。

 アントンは、一人だった。

 テーブルの上には、空になったエールのジョッキがいくつも転がっている。彼は、新しい一杯を煽りながら、誰にともなく悪態をついているようだった。その背中は、昼間の自信に満ち溢れた芸術家のそれとは似ても似つかない。ただひたすらに小さく、惨めに見えた。



 私は、カウンターで温かいエールと、厨房の隅で焼かれていたチーズパイを一つ注文し、それを盆に乗せて、彼のテーブルへと静かに向かった。

 私が盆をテーブルに置く音で、彼はようやく顔を上げた。その目は、酒と屈辱で赤く充血している。

 「……なんだ、てめえは」

 私だと気づくと、彼の顔が憎悪に歪んだ。

 「敗者に、情けでもかけに来たか! それとも、この無様な姿を笑いに来たか、あぁ!?」

 ガシャン、と音を立てて、彼はジョッキをテーブルに叩きつける。周囲の客が、何事かとこちらを見た。

 私は、彼の怒りを意に介さず、買ってきた温かいエールのジョッキを、彼の前にそっと押しやった。湯気の立つチーズパイの皿も、その横に置く。

 「いいえ」

 私は、彼の向かいの椅子に、静かに腰を下ろした。

 「あなたの技術に、敬意を表しにきました」

 「……は?」

 アントンは、虚を突かれたように、間の抜けた声を漏らした。

 私は、彼の目を見つめて、続けた。

 「あのテリーヌの火の通し方、完璧でしたわ。特に、ギンケイ鳥の胸肉と、パプリカの火入れの時間をあれほど精密に変えているとは。ゼリーの硬度も、口の中で溶ける瞬間まで計算され尽くしていた。あれは、まさしく芸術です」

 私の言葉に、嘘やお世辞は一切ない。料理人としての、純粋な称賛だった。

 アントンの顔から、憎悪の色が消え、戸惑いの色が浮かぶ。彼は、自分の敗北を罵られることは覚悟していただろう。だが、勝者から、自分の技術の核心を、これほど的確に評価されることなど、想像もしていなかったに違いない。

 「もしよろしければ」と私は、一歩踏み込んだ。「私に、あの技術を教えていただけませんか?」



 酒場の喧騒が、遠のいていくようだった。

 アントンは、言葉を失い、ただ私を呆然と見つめている。

 「……何を、企んでやがる」

 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 「企みなど、ありませんわ」

 私は、穏やかに微笑んだ。「私は、あなたのあの素晴らしい技術を、この北の地で活かす道があるのではないか、と考えているだけです」

 私は、窓の外の暗闇に目を向けた。その向こうに、今日、私の煮込みを食べて笑っていた、たくさんの人々の顔が浮かぶようだった。

 「アントン殿。あなたの技術は、確かに王様一人を、最高の形で喜ばせることができるでしょう。それは、本当に素晴らしいことです」

 私は、再び彼に視線を戻した。

 「ですが、その素晴らしい技術を、王様一人を喜ばせるためだけでなく、この街の千の笑顔のために、使ってみる気はありませんか?」

 「……千の、笑顔……」

 アントンが、うわ言のようにその言葉を繰り返す。彼の脳裏に、今日の広場の光景が蘇っているのが分かった。自分の完璧な芸術品ではなく、素朴な煮込みに熱狂し、歓声を上げていた、あの名もなき民衆の顔、顔、顔。

 彼は、ぐっと唇を噛み締め、何かを振り払うように首を横に振った。

 「……馴れ合うつもりは、ない!」

 そう悪態をつきながらも、彼の視線は、テーブルの上のチーズパイに吸い寄せられていた。湯気と共に立ち上る、焼けたチーズと小麦の香ばしい匂い。

 彼は、まるで何かに導かれるように、そのパイを無意識に手に取り、そして、大きな口で、がぶりと齧った。



 サクッ、という軽快な音。

 そして、中からとろり、と溶け出した熱いチーズが、彼の舌を優しく包み込む。塩気の効いた生地と、濃厚なチーズの味わい。それは、芸術品とはほど遠い、どこまでも素朴で、温かい味だった。

 アントンの動きが、ぴたりと止まった。

 彼の頬が、ほんの少しだけ、緩んだのを、私は見逃さなかった。

 私は、それ以上何も言わず、静かに席を立った。私の役目は、もう終わった。あとは、彼自身が決めることだ。

 「……待て」

 背後から、かろうじて聞こえるような、小さな声がした。

 しかし、私は振り返らなかった。


 翌朝、私は自室の窓から、市場へ向かう通りの様子を眺めていた。

 露天商たちが、威勢のいい声を上げながら、店の準備を始めている。その中に、見慣れない人影があった。

 昨日まで私と敵対していた、露天商ギルドの強面の親方。その彼の店の前で、一人の男が、深々と、深く、頭を下げていた。

 純白のコックコートではない。ありふれた旅人の服を着た、アントンだった。

 親方が、困ったように頭を掻いている。やがて、何かを諦めたように、アントンの肩を一度だけ、乱暴に叩いた。

 アントンが、ゆっくりと顔を上げる。

 その顔に、昨夜までの屈辱や、王都での傲慢な表情は、もうどこにもなかった。ただ、一人の料理人として、新しい朝を迎えようとする、決意だけが宿っていた。

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