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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第67話 本当の審査員

 アントンが勝ち誇った表情で差し出した、宝石のようなテリーヌ。その一切れが、まず審査員たちの前に置かれた。

 市参事会の長老が、銀のフォークを手に取り、慎重にそれを口元へと運ぶ。彼の眉が、驚きにわずかに上がった。

 「……見事だ。ギンケイ鳥の繊細な旨味と、野菜の甘みが、完璧な調和を保っておる。何という技術だ」

 軍医のダニエルも、吟味するように味わい、深く頷いた。

 「それぞれの食材の火の通り方が、寸分の狂いもなく計算されている。これは料理というより、精密な外科手術に近い」

 最後の審査員、露天商ギルドの親方は、無言で一切れを口に放り込むと、腕を組んで唸った。「……ちっ。悔しいが、うめえ。王都の貴族様方が食うもんは、こんな味なのか」

 審査員たちの称賛の声は、マイクもないのに、静まり返った広場によく響いた。観衆は、アントンの勝利を確信したように、大きくどよめく。アントンは、その反応に満足げに頷き、私に向かって侮蔑の視線を投げかけた。

 しかし、私は気づいていた。

 彼らの皿に乗せられたテリーヌは、あまりにも薄く、小さかった。そして、北の地の冷たい風に晒され、その完璧な芸術品は、あっという間にただの冷たい肉のゼリー寄せへと変わっていく。一口の感動は、二口目にはもうない。



 「では、私の料理も、どうぞ」

 私は、大きな鉄鍋の蓋を開けた。

 ぶわっ、と立ち上った湯気と共に、凝縮された肉と野菜の、豊かで優しい香りが広場に広がる。それは、アントンの料理が持っていた、計算され尽くした洗練された香りとは違う。誰もが子供の頃から知っている、家庭の温かさを思い出させるような、抗いがたい香りだった。

 私は、深皿に熱々の煮込みをたっぷりと盛り付け、その上に、カリカリに焼いたパンを一枚添えて、審査員たちの前に差し出した。

 見た目は、どこまでも素朴だ。茶色い煮込み料理。それ以上でも、それ以下でもない。

 長老が、ためらうようにスプーンを手に取る。

 しかし、その一口を口に運んだ瞬間、彼の厳しい表情が、ふっと和らいだ。

 「……おお。温かい。ただ、温かいな……」

 それは、味の評価ではなかった。しかし、その一言には、テリーヌを味わった時にはなかった、心の底からの安堵の色が滲んでいた。

 ダニエル軍医は、大きく一口頬張ると、満足げに息をついた。

 「塩漬け肉の塩分が、煮込むことで程よく抜け、逆に野菜の甘みを引き立てている。何より、この熱が、冷えた体に染み渡る。これは、人を元気にするための料理だ」

 親方は、添えられたパンを豪快に煮込みに浸し、大きな口で頬張ると、目を閉じてその味を噛み締めている。

 評価は、拮抗していた。技術と芸術のアントンか、温かさと実利の私か。観衆は、固唾をのんで、最後の審判を待っていた。



 その、張り詰めた沈黙を破ったのは、私自身だった。

 私は、審査員席から一歩下がり、広場を埋め尽くす観衆に向かって、深く頭を下げた。

 そして、顔を上げ、はっきりとした声で言った。

 「審査員の皆様、素晴らしい評価をありがとうございます。ですが、私の料理の本当の審査員は、ここにいる皆様です」

 その言葉に、広場がざわめく。

 私がフィーたちに目配せをすると、待機していた侍女や、厨房の若手料理人たちが、一斉に動き出した。彼らは、私が用意していた何百もの小さな木のカップを手に、観衆の中へと入っていく。

 そして、私の鉄鍋から、熱々の煮込みを一杯ずつ、そこにいる全ての人々に配り始めたのだ。

 「なっ……!何を!?」

 アントンが、驚きと怒りに顔を歪めて叫ぶ。「これは神聖な勝負だぞ!下賤な民衆に媚を売るなど、料理人にあるまじき行為だ!」

 私は、彼に静かに向き直った。

 「いいえ、アントン殿。料理とは、誰かの腹を満たし、心を満たすためにあるもの。私は、そう信じています」

 最初は戸惑っていた人々も、差し出された温かいカップを受け取ると、ふうふうと息を吹きかけながら、恐る恐るその一口を味わった。

 その瞬間だった。

 広場のあちこちから、歓声が上がり始めたのは。

 「うまい!」

 「ああ、体が芯から温まるようだ!」

 「うちのかあちゃんが作るシチューの、百倍うめえぞ!」

 幼い子供が、口の周りをソースで汚しながら、満面の笑みで母親を見上げている。凍える手をカップで温めていた老人が、安堵のため息をついている。屈強な兵士たちが、まるで子供のようにはしゃぎながら、おかわりをねだっている。

 一口の芸術品は、一人の人間を感嘆させるかもしれない。

 しかし、日々の糧となる温かい一杯は、ここにいる千の人間を、幸福にすることができる。

 広場は、もはや料理対決の会場ではなかった。それは、一つの巨大な食卓となり、温かい湯気と、人々の笑顔と、幸せなざわめきに満ちていた。



 その光景を、審査員たちは、ただ呆然と見つめていた。

 やがて、露天商ギルドの親方が、ゆっくりと席を立った。

 彼は、マイクも使わず、しかし広場の隅々まで届くような、腹の底からの大声で、叫んだ。

 「もう、審査の必要はねえ!」

 広場が、一瞬だけ静まり返る。誰もが、彼の次の言葉に注目した。

 親方は、アントンを指さし、そして次に私を指さした。

 「アントン殿の料理は、確かに凄え! 王様や、大金持ちの貴族様が、金に飽かせて食う、最高の芸術品だ!」

 そして、彼は、自分の胸を拳で叩き、続けた。

 「だがな! レティシア様のこの煮込みは! 寒い日に凍えながら家に帰ってきた俺たちを、腹の底から温めてくれる、俺たちのための料理だ! どっちが上かなんて、決まってるだろうが!」

 その言葉が、引き金だった。

 一人の兵士が上げた雄叫びを皮切りに、地鳴りのような拍手と歓声が、広場全体を揺るがした。それは、もはや勝敗を決する拍手ではない。この街の人々が、自分たちのための料理人を見つけたことへの、心からの感謝と承認の叫びだった。

 敗北したアントンは、その輪の中心で、ただ一人、呆然と立ち尽くしていた。

 彼の視線の先には、審査員の冷徹な評価の顔はない。ただ、自分の料理ではなく、素朴で、ありふれた煮込みを、心の底から嬉しそうに頬張る、何百という人々の、幸福な笑顔だけが広がっていた。

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