第64話 貧民街の取引
お菓子による逆プロパガンダは成功した。しかし、それはあくまで対症療法に過ぎない。毒の根、すなわち私に敵意を向ける者たちの資金源と実行部隊を叩かなければ、同じことの繰り返しになるだろう。
その糸口は、予想より早く、侍女リナからもたらされた。
「奥様……。私が連絡を取っていた男が、仲間内で話していたのを小耳に挟みました。落書きを実行した者たちは、騎士団の手入れを逃れて、領都の西にある『灰色の路地』に潜伏している、と」
灰色の路地。それは、領都の繁栄から取り残された、貧民街の通称だった。入り組んだ路地は治外法権と化し、騎士団でさえ容易には手出しができない場所だ。
「フィー。準備をして。そこへ行きます」
私の言葉に、フィーは顔を青くした。
「なりません、奥様! あのような危険な場所に、奥様がお出ましになるなど!」
執事長のブランドンも、報告を聞きつけて駆けつけ、厳しい表情で反対した。「騎士団に任せるべきです。奥様が危険を冒す必要はございません」
「騎士団が行けば、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げるだけでしょう」と私は静かに首を振る。「それに、私の目的は犯人を捕まえることではありません。彼らがなぜ、銀貨数枚のために、このような危険な仕事を引き受けたのか。その根源を知りたいのです」
私の揺るぎない瞳を見て、二人はそれ以上何も言えなかった。
*
私は、目立たないように古びた旅装に着替え、フィーと、護衛として選んだ私服の騎士二名だけを連れて、灰色の路地へと足を踏み入れた。
一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わるのが分かった。市場の活気とは無縁の、淀んだ空気が頬を撫でる。建物の壁は煤けて剥がれ落ち、道端には痩せた犬が力なく横たわっていた。すれ違う人々の瞳は虚ろで、私たちのような身なりの良い者へ向ける視線には、あからさまな警戒と、かすかな敵意が混じっている。
ここにも、アレスティード公爵の統治する領地で暮らす人々がいる。しかし、彼らの食卓は、決して温かいものではないのだろう。
私たちは、路地が少しだけ開けた小さな広場に場所を確保した。そして、私が持参させた大きな鍋を火にかける。
「奥様、本当にここで炊き出しを?」
不安げなフィーの問いに、私は頷き、持ってきた麻袋から、ありふれた乾燥豆と塩漬けの豚肉、そして干し野菜を取り出した。
やがて、鍋からぐつぐつという音と共に、素朴だが食欲をそそる香りが立ち上り始めると、それまで遠巻きに見ていた住民たちの足が、ぴたりと止まった。
*
最初は、誰も近づこうとはしなかった。ただ、飢えた瞳だけが、鍋から立ち上る湯気を、じっと見つめている。
私は、木の椀にスープを一杯よそい、一番近くにいた、幼い子供の手を引く母親に、静かに差し出した。
「どうぞ。体が温まりますよ」
母親は一瞬ためらったが、子供が「おなかすいた」とぐずる声に負け、おずおずと椀を受け取った。そして、その一口を皮切りに、堰を切ったように人々が集まり始めた。
私は黙々とスープを配り続けた。騎士たちが周囲を警戒し、フィーが椀を洗う。その間、私は人々の会話に、注意深く耳を澄ませていた。
「ちくしょう、今日も仕事にあぶれた」
「うちの子が、また咳をしてるんだ。薬を買う金もないのに……」
「冬を越せるのかねえ……」
聞こえてくるのは、日々の暮らしへの絶望と、未来への渇望ばかり。彼らは、悪人なのではない。ただ、生きることに疲れ果てているだけなのだ。
私が求めていた言葉は、日が傾き始めた頃、一人の老人の口から、ぽつりと漏れた。
彼は、スープの椀を両手で温めながら、隣の男に話しかけていた。
「そういや、最近見ねえな。羽振りのいい身なりの男が来て、『公爵夫人の悪口を壁に書くだけで、銀貨をやる』なんて、うまい話を持ちかけてきたんだが」
隣の男が、苦々しく応じる。
「ああ、あの話か。危ねえ仕事だって分かっちゃいるが、銀貨一枚で家族が三日食えるとなると、心が揺らぐよな……」
――見つけた。
私は、その老人たちの前に、静かに歩み寄った。
*
私の突然の接近に、老人たちはぎょっとして身を固くした。私が公爵夫人であることには、まだ気づいていないようだ。
私は彼らの前に屈みこみ、視線の高さを合わせた。
「お話、少しだけ聞こえました」
老人の顔から、さっと血の気が引く。まずいことを口走ってしまった、と後悔しているのが見て取れた。
私は彼らを責めなかった。代わりに、スープのおかわりを差し出しながら、静かに、しかし力強く、一つの取引を持ちかけた。
「では、逆の情報を流せば、金貨を差し上げますわ」
「……き、金貨だと?」
老人の目が、信じられないというように見開かれた。
「ええ。『公爵夫人は、我々のような貧しい者にも、温かい食事と仕事を与えてくれる、慈悲深い方だ』と。そう、街で噂を流してくだされば、報酬として金貨をお支払いします」
私は、言葉を続ける。
「そして、その金貨を元手に始められる、新しい仕事も、私が必ず用意いたします。この灰色の路地を、あなた方自身の力で、温かい色の場所に変えるための仕事を」
老人は、私の顔と、湯気の立つスープの椀を、交互に見た。
その、深く刻まれた皺だらけの顔に、驚きと、疑念と、そして、もう何年も忘れていたであろう、かすかな希望の光が入り混じって浮かぶ。
彼の手の中で、温かいスープの入った椀が、ぴたりと止まっていた。




