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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第63話 お菓子は噂より甘く

 侍女リナを二重スパイとして手駒に加えたことで、敵の動きを探るための目は確保できた。しかし、それは水面下の戦いの話。一度、領民の心に撒かれてしまった疑念という毒は、そう簡単には消えてなくならない。

 市場を歩けば、まだどこか遠慮がちな視線を感じる。子供を私のそばに寄せまいと、母親がそっと腕を引く気配もある。言葉で「噂は嘘です」と叫んだところで、一度植え付けられた不安は、かえって根を深くするだけだろう。

 「言葉で駄目なら、言葉ではないもので伝えればいい」

 厨房で腕を組みながら、私は静かに呟いた。

 「奥様?」

 心配そうに私の顔を覗き込むフィーに、私は振り返ってにやりと笑ってみせた。

 「毒には薬を、悪意には善意を。それも、こちらの土俵で、圧倒的な量で上書きするのよ」

 私のその言葉は、新たな戦いの始まりを告げる号令となった。



 作戦会議は、厨房の大きな作業台を囲んで行われた。集まったのはフィーと、今や私の忠実な部下となった料理人たちだ。

 「噂を打ち消すための、逆プロパガンダを開始します」

 前世で聞きかじった言葉を使うと、皆きょとんとした顔をしている。

 「要するに、悪口が広まっているなら、それ以上に素敵な『事実』を広めて、皆の記憶を塗り替えてしまおう、ということです」

 私は大きな紙に計画の骨子を書き出した。

 「領都の全地区で、温かい焼き菓子の無料配布を、大々的に行います」

 「まあ、素敵です! でも、どんなお菓子を?」

 「メニューは二つ。体を芯から温めるジンジャーをたっぷり使ったクッキーと、甘酸っぱいリンゴのパイ。どちらも、子供からお年寄りまで、誰もが好きな家庭の味です。そして、これが重要なんですが……」

 私は、もう一枚の紙を見せた。そこには、私が考えた短いメッセージが記されている。

 『温かいお菓子は、心を温めます。悪意ある言葉に、心を冷やさないで』

 「このメッセージを印刷した小さなカードを、お菓子一つ一つに添えるのです」

 さらに、私はその下に、子供でもすぐに覚えられるような、簡単な歌の歌詞を書き添えた。


 あったかいパイ あったかいスープ

 こころもぽかぽか

 わるくちはさむい

 とんでいけ


 「……奥様、天才です!」

 フィーが、目をきらきらさせて叫んだ。料理人たちも「これなら勝てる!」と拳を握りしめている。厨房の士気は、一気に最高潮に達した。



 それから三日間、アレスティード公爵家の厨房は、甘くスパイシーな香りと熱気に満ちた、お菓子の工場と化した。

 小麦粉の袋が次々と空になり、山のように積まれたリンゴが、小気味よい音を立てて刻まれていく。巨大なオーブンは休むことなく稼働し続け、焼き上がったクッキーとパイが、作業台にずらりと並べられていった。

 その光景は、まさに圧巻だった。

 作戦は厨房だけにとどまらなかった。侍女たちは焼き菓子を袋に詰める作業を手伝い、文字の書ける者はメッセージカードの筆耕に加わった。庭師は薪を運び、厩番の男たちまでが、力仕事である粉運びを手伝ってくれている。

 屋敷の誰もが、この戦いが私一人のものではなく、この温かい場所を守るための、全員の戦いなのだと理解してくれていた。

 一度だけ、夜遅くまで厨房で作業をする私の元へ、アレスティード公爵がふらりと現れたことがあった。

 彼は何も言わず、ただ、山と積まれた焼き菓子と、忙しく立ち働く使用人たちの姿を、静かに見渡していた。そして、私の隣に置かれていた、少しだけ形の崩れたジンジャークッキーを一つ、無言でつまみ上げると、ゆっくりと口に運んだ。

 「……悪くない」

 それだけを呟くと、彼は満足したように踵を返し、去っていった。

 彼の短い言葉と、その背中が、何よりも力強い承認のように、私には感じられた。



 決行の日の朝は、空気がきんと冷える晴天だった。

 「皆様、お願いします!」

 私の号令一下、侍女たちを中心とした配布部隊が、焼き菓子で満たされた大きな籠を手に、領都の各地区へと散らばっていく。

 最初は、領民たちの反応は鈍かった。

 「公爵夫人様から、皆様へ。悪質な噂でご心配をおかけしたお詫びと、変わらぬ友情の証です」

 侍女たちが笑顔でそう言って焼き菓子を差し出しても、人々は戸惑ったように顔を見合わせ、遠巻きにするばかり。噂の毒は、まだ人々の心に残っている。

 その空気を破ったのは、いつだって子供たちの純粋な好奇心だった。

 一人の小さな男の子が、母親の手を振りほどき、甘い香りに誘われて、配布用の籠へと駆け寄った。

 「わあ、いいにおい!」

 彼が熱々のアップルパイを受け取り、大きな口で頬張る。その顔が、ぱあっと輝いた。

 「おいしい!」

 その一言が、魔法の呪文だった。一人、また一人と子供たちが集まり始め、その様子を見ていた大人たちの警戒も、少しずつ解けていく。やがて、あちこちで小さな輪ができ、人々は焼き菓子を片手に、自然と顔をほころばせていた。

 そして、作戦の第二段階が始まった。

 一人の女の子が、お菓子に添えられたカードの歌詞を、たどたどしく口ずさみ始めたのだ。

 「あったかいパイ、あったかいスープ……」

 その歌声は、すぐに隣の子供に伝染し、やがて、街角のあちこちで、子供たちの無邪気な合唱となって響き渡り始めた。

 その歌声は、悪意ある噂よりもずっと心地よく、ずっと温かい。それは、街の空気に染みついた毒を、洗い流していく清らかな水のようだった。



 数日後、私は再び市場のあの壁の前に立っていた。

 醜悪な落書きは、もうどこにも見当たらない。

 代わりに、その壁一面は、子供たちが思い思いに描いた、色とりどりのチョークの絵で埋め尽くされていた。

 太陽の絵、花の絵、そして、湯気の立つパイやクッキーの絵。

 悪意は、無垢な感謝と喜びによって、跡形もなく消え去っていた。

 街を歩けば、もう私を遠巻きにする者はいない。すれ違う人々は、皆、親しみを込めて微笑みかけてくれる。

 「奥様、あのお菓子、本当に美味しかったです!」

 「うちの子、一日中あの歌を歌ってるんですよ」

 毒の言葉は、「温かいお菓子の夫人」という、甘く親しみやすい記憶に、完全に塗り替えられていた。

 戦いは、まだ終わってはいないだろう。敵はきっと、次の手を考えているはずだ。

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