第62話 偽りの計画と一人の涙
市場での宣言の後、私はすぐさま屋敷に戻り、自室に籠った。
感情的に行動しては、見えない敵の思う壺だ。前世で叩き込まれたトラブルシューティングの基本は、まず第一に冷静な情報分析。私は騎士団に依頼して書き写させた落書きの文面を、机の上に広げ、静かに思考を巡らせていた。
『偽りの聖女』『南の女』――これらは、私の出自を知る者なら誰でも思いつく、ありふれた中傷だ。
だが、一つだけ、妙に具体的な記述が私の目を引いた。
『彼女のスープには、人を惑わす媚薬が入っている』
問題は、その後に続く小さな注釈のように書かれた一文だった。『特に、バレリアの花の香りは危険だ』と。
バレリア。それは、鎮静効果と安眠作用があることで知られるハーブだ。私は時折、眠れない夜のために、自分専用のミルクティーにほんの少しだけ、このハーブを乾燥させたものを混ぜることがあった。
その事実は、公爵夫妻の寝室周りを担当するごく一部の侍女と、私の個人的なハーブを管理している厨房の者、そして庭師しか知らないはず。
――屋敷の中に、内通者がいる。
その確信は、私の背筋を冷たいものではなく、むしろ熱い闘志で満たした。敵の尻尾が、ようやく見えたのだ。
*
「ブランドン、フィー。入って」
私は、最も信頼する二人を私室に呼んだ。
扉を閉め、私が内通者の可能性について告げると、フィーは悔しさに顔を歪め、ブランドンは眉間の皺を深くした。
「そんな……! 奥様を心からお慕いしている者ばかりだと、信じておりましたのに!」
「……油断しておりました。私の監督不行き届きです。直ちに全使用人の身辺調査を」
「その必要はありません」と、私は冷静に二人を制した。「闇雲に探せば、無実の者にまで疑いの目を向けることになり、屋敷の結束が乱れます。それに、相手はきっと、こちらが内通者を探していることにも気づいているはず」
私はペンを取り、一枚の羊皮紙を三つに分けた。
「ですから、こちらから罠を仕掛けます」
私の計画を聞いた二人は、目を見張った。
「わざと、偽の情報を流すのですか?」
「ええ。三つの、全く異なる偽の計画を、それぞれ別の部署にだけ、それとなく漏らします」
私は、さらさらとペンを走らせた。
一つ目。侍女たちには、「近々、A地区の炊き出しで、東方から取り寄せた新しい香辛料を試すつもりだ」と。
二つ目。厨房で働く若手の料理人たちには、「B地区の子供たちのために、甘いカボチャを使った新しいお菓子を配る計画がある」と。
そして三つ目。庭師たちには、「C地区のパン屋と協力して、薬草園で採れたバレリアのハーブを練り込んだ、特別なパンを焼く」と。
「次に現れる落書きの内容で、どの部署から情報が漏れたのかが、正確に特定できます」
フィーは息を呑み、ブランドンは「……合理的ですな」と静かに頷いた。彼の瞳には、私の非情なまでの冷静さに対する、かすかな畏怖と、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。
*
計画は、静かに実行に移された。
私は侍女たちとのお茶の時間に、「新しい香辛料が楽しみだわ」と胸を弾ませるふりをした。厨房では、「カボチャの甘さをどう活かそうかしら」と若手料理人に相談を持ちかけた。庭師とは、バレリアの収穫時期について、わざと大きな声で話し合った。
誰もが、私の言葉を疑うことなく、熱心に耳を傾けてくれた。その純粋な瞳を見るたびに、私の胸はちくりと痛んだが、感傷に浸っている時間はない。
そして、罠を仕掛けてから三日後の朝。
フィーが、再び蒼白な顔で私の元へ駆け込んできた。その手には、騎士が剥がしてきたのであろう、新しい落書きが書かれた掲示板の木片が握りしめられている。
『警告! A地区の民よ! 夫人は次、異国の毒の香辛料を試す気だ!』
――侍女。
犯人が特定された安堵と、身近な者からの裏切りに対する、冷たい失望が、私の心の中で渦を巻いた。
「……許せません」
フィーが、震える声で呟いた。その瞳には、涙と、裏切り者への激しい怒りが燃えていた。
「すぐに、該当する侍女全員を尋問し、犯人を……!」
「待って、フィー」
私は、怒りに燃える彼女の肩に、そっと手を置いた。
「犯人は、もう分かっています。尋問は必要ありません」
*
その日の午後、ブランドンに連れられて、一人の若い侍女が私の前にやってきた。
リナ、という名の、まだ年若い少女だった。いつもはにかんだような笑顔で私の世話をしてくれていた、物静かな子だ。
彼女は私の前に立った瞬間、わっと泣き崩れ、その場にへたり込んだ。
「申し訳、ありません……! 奥様、申し訳ありません……!」
嗚咽にまぎれながら、彼女は全てを白状した。
貧民街に住む彼女の弟が、重い肺の病を患っていること。治療には、平民には到底手の届かない高価な薬が必要なこと。そこへ、見知らぬ男が近づき、「公爵夫人の身の回りの情報を流すだけで、薬代を全て出してやる」と持ちかけてきたこと。
「奥様が、素晴らしいお方だということは、分かっておりました……! でも、私には、弟を見殺しにすることなんて、できなくて……!」
彼女は、ただ、必死だったのだ。家族を救うために、悪と知りながら、その手にすがるしかなかった。
私は、泣きじゃくる彼女の前に屈みこみ、その震える肩に、そっと手を置いた。
フィーが、息を呑むのが分かった。彼女は、私が厳しい罰を下すものと思っていたのだろう。
「顔を上げなさい、リナ」
私の静かな声に、彼女は恐る恐る、涙に濡れた顔を上げた。その瞳には、恐怖と絶望の色が浮かんでいる。
私は、彼女の瞳をまっすぐに見つめて、言った。
「あなたを、罰するつもりはありません」
「……え?」
「弟さんの治療は、これより、公爵家が責任を持って引き受けます。軍医のダニエル先生に、最高の治療をさせましょう」
リナの瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
私は、彼女の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「その代わり、あなたには、仕事をしてもらいます」
私は、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「これからは、二重スパイとして、敵の情報をこちらに流しなさい。あなたなら、できるでしょう?」




