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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第61話 壁に書かれた毒

 あの夜、アレスティード公爵の指先に触れた温もりは、私の心に小さな灯火のように宿っていた。

 それからの数日間、公爵領は穏やかな陽光に包まれていた。冬の厳しさが嘘のように和らぎ、市場には活気が戻り、子供たちの笑い声が街のあちこちで聞こえる。私が築き上げてきた、ささやかで温かい日常。その全てが愛おしく、守るべき宝物なのだと、私は改めて感じていた。

 「奥様、今日のスープも最高です! これを飲まないと一日が始まりませんよ」

 市場のパン屋の主人が、焼き立てのパンと交換に、私の差し出したスープカップを受け取ってにこやかに笑う。その隣では、野菜売りの女性が「うちの娘、奥様のおかげで風邪ひとつひかなくなったんですよ」と頬を染める。

 疑念や警戒の視線は、もうどこにもない。私はただの「公爵夫人」ではなく、この街の温かい食卓を担う、一人の料理人として受け入れられていた。

 その平穏が、一夜にして砕かれることになるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。



 その朝、侍女長のフィーが、血の気の引いた顔で私の私室に駆け込んできた。その手には、朝食用のパンを買いに行ったはずの籠が、力なく握られている。

 「奥様……! ひどい、ひどすぎます……!」

 彼女は言葉を詰まらせ、わなわなと震える指で窓の外、領都の方角を指さした。

 何事かと、私は彼女に促されるまま、身支度を整えて屋敷の外へ出た。ブランドンが心配そうな顔で止めようとしたが、私はそれを制して、市場へと足を速める。

 そして、私は見てしまった。

 いつもパン屋の主人が笑顔で迎えてくれる、あの真っ白な壁。そこに、黒く、醜悪な文字が、まるで毒を塗りたくったかのように描かれていた。


 『公爵夫人は偽りの聖女』


 私の足が、その場に縫い付けられたように止まる。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃。

 悪意は、そこだけではなかった。広場の掲示板、酒場の扉、人々が必ず目にするであろうあらゆる場所に、同じような言葉が踊っていた。

 『彼女のスープには、人を惑わす媚薬が入っている』

 『北の民は、南の女に騙されている』

 南の女。その言葉が、捨てたはずの実家の影を、私の背後にちらつかせる。

 昨日まで私に笑顔を向けてくれていた人々が、遠巻きに私を見ている。その視線には、戸惑い、不安、そして、かすかな疑念の色が混じっていた。温かいスープを受け取ってくれた手が、今は固く握りしめられ、私に向けられることはない。

 築き上げてきた信頼が、一夜にして砂の城のように崩れ去っていく。その音を、私は確かに聞いた。



 屋敷に戻ると、そこは静かな嵐の前のようだった。

 執事長のブランドンが、厳しい表情で私に報告する。

 「奥様。騎士団が調査を開始しましたが、犯人は夜陰に乗じて行動しており、まだ特定には至っておりません。しかし、これは明らかに、奥様の名誉を毀損し、領民の間に不和をもたらそうとする計画的な犯行です」

 私は黙って頷いた。彼の冷静な報告が、かえって事態の深刻さを物語っている。

 「直ちに全ての落書きを消させます。ご安心ください」

 ブランドンの言葉に、私は首を横に振ろうとした。その時、執務室の扉が静かに開き、アレスティード公爵が入ってきた。

 彼の顔は、いつもと同じく無表情だった。しかし、その纏う空気は、絶対零度の氷のように冷え切っている。彼は私を一瞥すると、ブランドンに向き直った。

 「報告は聞いた」

 低い、地を這うような声だった。

 「犯人を捕らえ次第、法の最大限度で裁け。一切の情状酌量の余地はない」

 それは、領主としての、冷徹で非情な命令だった。しかし、その言葉は、不思議と私の凍えた心を少しだけ温めた。彼は、私を疑ってなどいない。この悪意に対して、私以上に、静かな怒りの炎を燃やしている。

 ブランドンが深く頭を下げて退室した後、執務室には私と公爵、二人だけが残された。

 彼は何も言わず、窓の外に広がる自分の領地を、厳しい目で見つめている。その横顔を見ながら、私は、彼がこの土地と、ここに住む人々を、どれほど深く愛しているかを改めて知った。そして、その彼の世界に、私が持ち込んでしまった混乱。

 「……申し訳、ありません」

 思わず、謝罪の言葉が口をついて出た。

 「私のせいで、領地に、このような……」

 その時、彼はゆっくりと振り返り、私の言葉を遮った。

 「お前が謝ることではない」

 彼の声は、静かだが、揺るぎない響きを持っていた。

 「これは、お前個人への攻撃ではない。俺の統治そのものへの挑戦だ。そして……」

 彼は一度言葉を切り、私の目をまっすぐに見つめた。

 「俺の妻を、侮辱する行為だ」

 その瞳の奥で、冷たい怒りの炎が、青く燃えているのが見えた。

 彼が執務室を出て行った後、机の上に、彼が強く握りしめていたであろう指の跡が、痛々しく残っているのを、私は見つけた。



 私は、決意を固めた。

 ブランドンの制止を振り切り、再び、あの落書きが一番酷い市場の壁の前へと向かった。

 私が現れたことに気づき、人々がざわめき、遠巻きにこちらを見ている。その視線は、好奇と不安と、ほんの少しの非難が混じった、複雑な色をしていた。

 ちょうど、騎士団の兵士たちが、壁の文字を消すための準備を始めているところだった。

 「おやめなさい」

 私の静かだが、凛とした声が、市場のざわめきを止めた。

 兵士たちが、戸惑ったように私と、指示を出したであろう騎士の顔を交互に見る。

 私は、ゆっくりと壁の前まで歩みを進めた。そして、そこに書かれた毒の文字を、一つ一つ、目に焼き付けるように見つめた。

 偽りの聖女。媚薬。南の女。

 かつての私なら、きっとこれを見て泣き寝入りしただろう。「私が我慢すればいい」と、心を殺して、この悪意が過ぎ去るのを待ったに違いない。

 だが、今の私は違う。

 私は、集まった人々の方へ、ゆっくりと振り返った。そして、静かに、しかし、その場にいる全ての人の耳に届くように、はっきりと宣言した。

 「結構ですわ。消す必要はありません」

 人々の間に、驚きのどよめきが広がる。

 「これは、私に対する挑戦状なのでしょう。ならば、逃げも隠れもいたしません」

 私は、壁に書かれた醜い文字を、もう一度だけ振り返ってから、再び人々の顔を見据えた。

 「この挑戦、真正面から受けて差し上げます」

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