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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第60話 触れた指先の温度

 王都からの温かい風は、公爵家の日常に、静かだが確かな変化をもたらしていた。

 執事長のブランドンは、以前にも増して私への報告を丁寧に行うようになったし、侍女たちは私を見る目に、尊敬だけでなく、まるで伝説の人物を見るかのような、きらきらとした光を宿している。居心地の悪さはあるものの、この屋敷が、そしてこの領地が、良い方向へ向かっている実感は、私の心を確かに満たしていた。

 しかし、一番の変化は、アレスティード公爵、その人自身の中に起きているように思えた。

 彼は、以前よりも頻繁に厨房に顔を出すようになった。何かを言うわけではない。ただ、腕を組んで入り口に立ち、私が指示を出し、料理人たちが活気よく働く様子を、静かに眺めているだけ。

 そして、夜。私が彼の執務室へ、一日の終わりの温かいミルクティーを運ぶのが、いつしか習慣になっていた。

 その夜も、私は銀の盆を手に、重厚な扉をノックした。



 執務室の暖炉では、パチパチと音を立てて炎が揺らめいていた。

 アレスティード公爵は、机に向かうことなく、窓辺の椅子に腰かけ、外の闇を見つめていた。彼の前には、エレオノーラがもたらした王都からの報告書の写しが、何枚か置かれている。

 私がミルクティーを彼の隣のテーブルに置くと、彼は視線を闇から外し、私へと向けた。その瞳が、暖炉の光を反射して、琥珀色に揺れている。

 「……読んだか」

 低い声で、彼は机の上の報告書を示した。

 「はい。エレオノーラ様から、一通りは」

 「そうか」

 彼は短く応じると、再び沈黙した。心地よい薪のはぜる音だけが、部屋を満たす。

 私は、彼が何かを言いたがっているのを感じていた。だから、退出することなく、その場に静かに佇んでいた。

 やがて、彼は、まるで自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。

 「お前が来てから、この領地は変わった」

 それは、彼がこれまでも、時折口にしてきた言葉だった。しかし、その日の彼の声には、これまでとは違う、深い感慨のような響きが込められていた。

 彼は一度言葉を切り、そして、私をまっすぐに見つめて、続けた。

 「……いや、俺が変わったのかもしれん」

 予期せぬ、あまりにも率直な言葉だった。

 私の心臓が、とくん、と小さく跳ねる。どう返していいか分からず、ただ彼の瞳を見つめ返すのが精一杯だった。

 「私は……私がやりたいことを、してきただけですわ」

 ようやく絞り出した私の言葉に、彼は、ふっと、ほんのわずかに口の端を緩めた。それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも些細な変化だったが、私には、彼の心が少しだけ開いたのが分かった。

 「そうだろうな」と彼は言った。「お前は、いつもそうだ。だが、その『やりたいこと』が、俺が何十年もかけて築き、そして諦めてきたものを、根底から覆した」



 彼は、手にしていたティーカップをソーサーに置いた。カチャリ、という硬質な音が、静かな部屋に響く。

 「……幼い頃」

 彼は、視線を暖炉の炎へと移し、遠い過去を辿るように、静かに語り始めた。

 「俺の父は、厳格な人だった。この北の地を治める者は、誰よりも強く、冷徹でなければならないと、常に言っていた」

 それは、私が初めて聞く、彼の家族の話だった。

 「アレスティード家では、温かい食事は、弱者のためのものだと教えられてきた。病の兆候であり、甘えの象徴だと。……熱のあるスープを口にすれば、父に叱責された。温かいパンを欲しがれば、鍛錬が足りないと、雪の中に立たされた」

 彼の言葉の一つ一つが、私の胸に、小さな棘のように突き刺さる。

 氷の公爵。血も涙もない男。その仮面の下に隠されていたのは、温かさを求めることさえ許されなかった、一人の少年の姿だった。

 「強さとは、冷たさの中にこそある。……俺は、ずっとそう信じて生きてきた。いや、そう信じるしかなかった」

 彼は、そこで言葉を切った。

 もう、何も言う必要はなかった。彼の苦しみも、孤独も、その短い告白の中に、全てが詰まっていた。

 私は、彼にかけるべき言葉を見つけられずにいた。同情は、きっと彼を傷つけるだけだろう。

 だから、私は、ただ、彼の隣に、静かに立っていた。



 沈黙を破ったのは、彼の方だった。

 「……報告書を、返してもらおう」

 彼は、机の上に置かれたままだった、温補給所の運営報告書を指した。私が今夜、彼に提出するために持ってきたものだ。

 「あ、はい」

 私は、我に返って、分厚い羊皮紙の束を手に取った。そして、彼の前に差し出す。

 彼が、それを受け取るために、すっと手を伸ばした。

 その指先が、私の指に、そっと触れた。

 その瞬間、私は息を呑んだ。

 彼の肌は、もう決して氷のように冷たくはなかった。

 私がずっと、そう思い込んでいただけだったのだ。

 そこには、確かな熱と、生命の温もりが宿っていた。その温かさが、触れた指先から、私の心に直接流れ込んでくるようだった。

 彼は、私の驚きに気づいたのか、わずかに目を見開いた。そして、報告書を受け取ると、少しだけ気まずそうに、すぐに手を引いた。

 そんな、温かい夜だった。

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