第59話 北からの温かい風
私が始めたささやかな革命は、私自身の想像を遥かに超える速さで、この北の地に根付き始めていた。
温補給所は、街道の生命線として完全に機能していた。執事長のブランドンが定期的に提出する報告書には、冬の間にも関わらず、領内を通過する商人の数が前年比で三割も増加したと記されている。特に、これまで冬の間の交易を避けていた、南の温暖な地域の商人たちが、こぞってこの地を訪れるようになったという。
報告書には、聞き取り調査で得られた商人たちの声も、いくつか抜粋されていた。
『アレスティード公爵領の街道は、もはや冬の脅威ではない。むしろ、温かいスープと安全な宿を提供する、王国で最も旅人に優しい道だ』
『吹雪に遭っても、半日も歩けば必ず温かい場所に辿り着ける。あの安心感は、金には代えがたい』
『あの公爵夫人は、まるで国中の民を自分の家族のように考えておられるに違いない。そうでなければ、これほど細やかな配慮はできんよ』
その報告書を読みながら、私は熱いハーブティーのカップを両手で包み込んだ。じんわりと伝わる温かさが、私の胸の内に広がる誇りと重なる。
私がしたかったのは、ただ、凍えている人がいたら温めてあげたい、というだけの、ごく単純なことだった。それが今や、この領地の経済を動かし、人々の生活を豊かにする、大きな力になろうとしている。
その事実は、静かな喜びと共に、私の背筋をそっと伸ばさせた。
*
しかし、その評判は、もはやこの領地の中だけに留まってはいなかった。
ある晴れた日の午後、エレオノーラ伯爵令嬢が、一通の手紙を携えて、私の私室を訪れた。彼女は王都に住む友人から、最新の社交界の動向を常に仕入れており、その情報はどんな公式報告よりも早く、そして正確だった。
「レティシア、あなた、自分が今、王都でどう呼ばれているか知っている?」
優雅にソファに腰かけた彼女は、扇で口元を隠しながら、面白くてたまらないといった表情で私を見る。
「まさか、また『炎の夫人』ですか? あの歌は、もう聞き飽きましたわ」
私がうんざりしたように言うと、エレオノーラはくすくすと笑った。
「あら、それどころじゃないわよ。今や、あなたは『北の聖女』ですって。寒さと貧しさから民を救う、慈悲深き聖女様、ですって」
「……勘弁してください」
私は、こめかみを押さえた。大袈裟にもほどがある。
「でも、面白いのはここからよ」と、エレオノーラは身を乗り出した。「あなたの評判が上がるにつれて、アレスティード公爵閣下の評価も、劇的に変わり始めているの」
彼女が読み上げた手紙の内容は、私の予想を遥かに超えるものだった。
これまで王都の貴族たちは、アレスティード公爵のことを「北の蛮族」「血も涙もない氷の男」と見下し、その強大な軍事力を警戒するばかりだった。
しかし、今や、その評価は百八十度変わりつつあるという。
『アレスティード公爵は、恐ろしいだけの武人ではない。優れた夫人を得て、その冷徹さが、民を豊かにするための賢明な統治能力へと昇華されつつある』
『あれほど安定し、冬でも経済が潤う領地は、王国広しといえど他にない。彼は、次代を担う名君になる器かもしれん』
そんな言葉が、これまで公爵を批判していた派閥の口からさえ、漏れ聞こえてくるというのだ。
私は、言葉を失った。私がしたのは、ただ、この人の食事を温かくしただけだ。それなのに、世間は、私が彼の内面まで変えてしまったかのように語っている。
壮大な勘違いが、もはや誰にも止められない濁流となって、この国を駆け巡っていた。
*
エレオノーラは、手紙の最後の一節を、特にゆっくりと、意味ありげに読み上げた。
「そして、追伸よ。『……最も注目すべきは、王太后陛下の御関心です』」
王太后陛下。現国王の母君にして、この国の社交界と宮廷儀礼の頂点に立つ、絶対的な存在。
「ご存知の通り、王太后陛下は、生まれつきお体が弱く、常に冷えに悩まされているわ。どんな名医も、どんな薬も、その体質を改善するには至らなかった。その陛下が、北の地から聞こえてくる『体を芯から温める食事』の噂に、大変強い関心を示されている、ですって」
エレオノーラは、そこで手紙から顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。
「レティシア。これは、ただの噂話じゃないわ。あなたのやっていることは、もはや一公爵家の内政問題ではなく、王国の政治の中心にまで届き始めている。……王家の関心というのは、諸刃の剣よ。大きな力にもなれば、身を滅ぼす災いにもなる」
彼女の真剣な眼差しに、私はごくりと喉を鳴らした。
窓の外では、北の空が、穏やかな夕焼けに染まり始めている。
私の小さな厨房から始まった、温かいスープを作るという、ささやかな革命。
その湯気は、今や温かい風となり、この北の地を越え、遥か南の王都、荘厳な王宮の扉までをも、叩こうとしている。
その事実に、私は静かな興奮と、そして、ほんの少しの怖れを感じていた。
私の知らない、大きな物語が、すぐそこまで迫ってきている。そんな予感が、私の胸を騒がせていた。




