第5話 兵舎の冷たい現実
侍女長のフィーという心強い共犯者を得て、私の厨房改革は驚くほど順調に進み始めた。
朝食は、温かいスープと焼き立てのパンが基本になった。家令は未だに苦虫を噛み潰したような顔をしているが、公爵自身が何も言わない以上、彼も表立っては反対できない。厨房の料理人たちも、最初は遠巻きに見ていただけだったが、フィーが私の味方についたことで、少しずつその態度を軟化させていた。何より、自分たちが作った温かい料理が、誰かに「美味しい」と食べてもらえる喜びを、彼らも思い出し始めていたのだ。
屋敷の空気が、ほんの少しだけ、色づき始めたような気がしていた。この小さな成功に、私はささやかな達成感を覚えていた。
そんなある日の朝食後、執事長のブランドン様が私に声をかけてきた。
「奥方。もしお時間が許すなら、一度、兵舎の賄いを視察されてはいかがかな」
その提案は、あまりに唐突だった。しかし、彼の真意はすぐに読めた。これは、私に対する次なる査定なのだ。屋敷の厨房を改善した手腕が、もっと規模の大きい、そして規律が支配する場所でも通用するのか。彼はそれを見極めようとしている。
「ええ、喜んで。ぜひ、拝見させてください」
私は迷わず頷いた。彼が私を試すというのなら、その期待に応えるまでだ。それに、私自身も気になっていた。この公爵領を、ひいてはこの国を守る兵士たちは、一体どんな食事を摂っているのだろうか、と。
*
公爵家の紋章が入った馬車に揺られ、私とブランドン様は兵舎へと向かった。屋敷の門を抜けると、街の景色は次第に無骨なものへと変わっていく。やがて見えてきたのは、石と木材で堅固に作られた、巨大な兵舎の建物群だった。
馬車を降りた瞬間、屋敷とはまったく違う空気に肌が粟立った。活気というものが、まるでない。すれ違う兵士たちの歩き方は緩慢で、その目には覇気が感じられなかった。彼らは私たちに気づくと、形式的に敬礼はするものの、その表情は能面のように固い。
ブランドン様に案内されて足を踏み入れた食堂は、その空気を凝縮したような場所だった。
だだっ広く、がらんとしている。長い木のテーブルとベンチが並んでいるが、隅には埃が溜まり、床は薄汚れていた。ちょうど昼食の時間らしく、兵士たちが列をなして配給を受けている。
私たちがそこにいることに気づいた料理長らしき恰幅のいい男が、面倒くさそうにこちらへやってきた。
「これは執事長殿。わざわざこのような場所へ、いかがなさいましたか」
「奥方が、兵士たちの食事に関心をお持ちでな。少し、見学させていただく」
ブランドン様の言葉に、料理長はあからさまに顔を顰め、私に値踏みするような視線を向けた。
「はあ……。まあ、ご覧になるのはご自由に。ですが、兵士の食事は腹が膨れればそれでいいのです。屋敷のような繊細なものはございませんよ」
その言葉には、牽制と侮りが滲んでいた。私は何も言わず、配給の列に並ぶ兵士たちの手元に目をやった。
彼らが受け取っているのは、三つのものだけだった。黒ずんだ色の硬そうなパン。皿に無造作に盛られた、塩辛そうな干し肉。そして、色の薄い、水のようなスープ。
兵士たちは、その食事を無言で受け取ると、席について、ただ黙々と口へ運んでいく。会話はない。笑い声もない。聞こえるのは、食器がテーブルに当たる乾いた音と、重いため息だけ。
私は料理長に向き直った。
「失礼ですが、献立と予算の帳簿を拝見しても?」
「帳簿、ですか?まあ、ございますが……」
料理長は不承不承といった体で、油で汚れた分厚い帳面を持ってきた。ぱらぱらと捲ってみると、その管理はずさんの一言に尽きた。食材の仕入れ値はどんぶり勘定で、消費量も曖昧。これでは、横領があったとしても誰も気づかないだろう。
「昔から、このやり方でしてな。兵士に美食は不要。それが閣下の方針でもあります」
料理長はそう言って、すべての責任を公爵に押し付けた。
私は、兵士たちの方へ視線を戻した。彼らの何人かは、こちらを冷ややかな目で見ている。「どうせお偉いさんの気まぐれな視察だろう」。その視線が、痛いほど突き刺さる。前世で、現場を知らない上司がふらりとやってきた時の、あの冷え切った空気を思い出した。
*
私は、料理長に頼んで、兵士たちと同じ食事を一部、用意してもらった。
目の前の皿に乗った黒パンは、石のように硬い。干し肉からは、塩の結晶が浮き出て見える。
私は、そのパンを手に取った。そして、思い切り一口、かじりついた。
硬い。歯が欠けそうだ。そして、味がない。ただ、パサパサとした粉の塊が、口の中の水分をすべて奪っていく。
その味気なさが、私の心の奥底にしまい込んでいた記憶の蓋を、こじ開けた。
そうだ。我慢を強いられる味は、いつもこうだった。心を殺し、感覚を麻痺させ、ただ生きるためだけに詰め込む食事。前世の私がそうだった。そして、実家で魔力を搾り取られていた私が、そうだった。
搾取される側の人間は、やがて気力を失い、抵抗することをやめてしまう。目の前の兵士たちのように。
私は静かにパンを皿に戻すと、おもむろに立ち上がった。そして、食堂の中央へと歩みを進める。
ざわ、と兵士たちの間に、かすかな動揺が走った。私が何をしようとしているのか、誰もが訝しんでいる。
私は、そこにいるすべての兵士の顔を見渡して、静かに、しかし、隅々まで届くように、はっきりとした声で言った。
「皆さんの働きに、この食事は見合っていません」
食堂の空気が、しんと静まり返る。驚き、不信、そしてわずかな好奇心。様々な感情が入り混じった視線が、私一人に集中した。
私は、続けた。
「あなた方は、この領地と国を守る、誇り高き兵士のはずです。そのあなた方が、こんな冷たくて味気ない食事で、本当に力を発揮できるのですか」
誰も答えない。だが、何人かの若い兵士の瞳に、今までなかった光が宿るのを、私は見逃さなかった。
私は、ここで宣言するために来たのだ。
「近いうちに、私が温かいものを作りに来ます」
一方的な、宣戦布告だった。
*
兵舎からの帰り道、馬車の中は重い沈黙に包まれていた。
やがて、窓の外を眺めていたブランドン様が、ぽつりと口を開いた。
「奥方。兵舎の食事にまで介入するのは、前例がありません。料理長たちの反発も、相当なものでしょう」
彼の声には、懸念が滲んでいた。それは、私を案じているというよりは、面倒なことになるのを避けたい、という響きに近かった。
私は、彼のほうへ向き直る。
「ブランドン様。兵の士気は、領地の守りそのものです。彼らの心が冷え切ってしまえば、この公爵領は内側から崩れていくでしょう」
私は、彼の目をまっすぐに見つめて言った。
「これも『家の利益』でしょう?」
その言葉は、第3話で家令を論破した時と同じものだった。しかし、その意味合いは、まったく違う。これは、彼の価値観そのものを揺さぶるための、問いかけだった。
ブランドン様は、何も答えなかった。ただ、深く息を吐き、再び窓の外へと視線を戻す。
彼の沈黙が、答えだった。彼の天秤が、また少しだけ、私の方へと傾いた。