第57話 未来への備蓄
あの猛烈な雪嵐が残した爪痕の修復作業は、領民と騎士団の懸命な働きにより、驚くべき速さで進んでいた。壊れた屋台は片付けられ、人々は日常を取り戻しつつある。吟遊詩人の歌はすっかり街の子供たちの愛唱歌となり、私が歩いていると、どこからともなく『炎の夫人』という、気恥ずかしい合唱が聞こえてくるほどだった。
領民からの絶大な信頼。それは、私の心を温かく満たすと同時に、新たな責任の重さを私に教えていた。
あの日、私たちは奇跡的に一人の犠牲者も出さずに済んだ。けれど、それは多くの幸運が重なった結果に過ぎない。もし嵐の発生が、祭りの終わり際ではなく真夜中だったら。もし、あの場に十分な食材と薪がなかったら。そう考えると、背筋が冷たくなる。
今回の災害は、この領都が抱える、ある重大な脆弱性をはっきりと浮き彫りにしたのだ。
問題は、非常時の食料配給システムにあった。
現在の備蓄方法は、税として集められた穀物や保存食のほとんどを、街の外れにある巨大な中央倉庫一か所に集めて管理するというもの。効率は良いが、融通が利かない。あの夜、中央倉庫までの道は深い雪で完全に閉ざされ、倉庫の管理責任者は早々に自宅へ避難してしまっていた。つまり、備蓄は山のようにあっても、それを必要とする人々の元へ届ける術がなかったのだ。
私は、あの炊き出しの経験を元に、何枚もの羊皮紙に新しい計画を書き出していた。それは、これまでの常識を覆す、全く新しい備蓄の形だった。
準備は、整った。私はその計画書を手に、再びあの冷たい石造りの議場へと向かった。今度の相手は、露天商ではない。この領地の財政と行政を司る、最も保守的で、最も手強い官僚たちだった。
*
市参事会の議場は、前回と同じく、変化を嫌う老人たちの冷ややかな空気で満たされていた。特に、財務を管轄する官僚たちは、血色の悪い顔で腕を組み、私が口を開くのを値踏みするように待っている。
議長の許可を得て、私は立ち上がった。
「皆様。先日の雪嵐は、我々に大きな教訓を残しました。それは、現行の備蓄システムが、緊急時において全く機能しないという事実です」
私は、中央倉庫が孤立した状況を冷静に説明する。何人かの官僚は、自分たちの失態を指摘されたようで、気まずそうに視線を逸らした。
「そこで、私は新たな『地域分散型備蓄システム』を提案いたします」
私は持参した領都の地図を広げ、計画の骨子を説明し始めた。
「税として納められた穀物や保存食の三割を、これまで通り中央倉庫へ。しかし、残りの七割は、領都を十の地区に分け、それぞれの地区の中心にある神殿や公共施設、あるいは頑丈な商家の地下倉庫などに分散して備蓄するのです」
議場がざわめき始める。
「各地区の備蓄管理は、その地区の代表者、例えば神殿の神官や、信頼の置けるギルドの長に委任します。そして、今回のような非常事態が発生した際には、公爵家の許可を待たず、地区代表者の判断で、即座に住民への配給を開始できる権限を与えるのです」
私の説明が終わると、一人の財務官僚が、待ってましたとばかりに立ち上がった。痩せた体に、神経質そうな眼鏡をかけた男だ。
「馬鹿げている! そんなことをすれば、管理がどれほど煩雑になるかお分かりか! 十か所の在庫を常に把握し、品質を維持するなど、現実的ではない!」
それを皮切りに、他の官僚たちも次々と反対の声を上げた。
「そうだ! それに、横領のリスクが増大する! 地域の代表者などに、それほどの権限と物資を預けられるものか!」
「前例がない! 我が公爵領の歴史において、そのような分散管理を行った記録は一度たりともない!」
管理の煩雑さ。横領のリスク。そして、伝家の宝刀である「前例がない」。
彼らの反対理由は、全て私の想定内だった。私は一つ一つ、冷静に反論のデータを提示していく。管理については、各地区の代表者と定期的な報告会を開くこと。横領については、抜き打ちの監査と、違反者への厳罰を規定すること。
しかし、彼らは聞く耳を持たなかった。彼らにとって重要なのは、領民の命ではなく、自分たちが慣れ親しんだ規則と、変化のない日常を守ることだけなのだ。
議論は完全に平行線を辿り、議場は不毛な言葉の応酬で、ただ時間だけが過ぎていった。私は、分厚い氷の壁を、一人で叩き続けているような無力感に襲われ始めていた。
*
その、膠着した空気を切り裂いたのは、一つの、静かな物音だった。
こつん。
議場の隅、陪席者用の席に座り、それまで腕を組んで黙って議論を聞いていたアレスティード公爵が、机の縁を、指で一度だけ、軽く叩いた音だった。
その、ほんの小さな音に、議場にいた全員が、まるで魔法にかけられたかのように、ぴたりと口を噤んだ。全ての視線が、領地の絶対支配者へと注がれる。
議場は、墓地のような静寂に包まれた。
アレスティード公爵は、ゆっくりと、その場にいる官僚たち一人一人の顔を見渡した。その視線は、温度というものを一切感じさせない。だが、その奥には、鋼のような、決して揺らぐことのない意志が宿っていた。
官僚たちは、その視線に射すくめられ、青ざめ、額に脂汗を浮かべている。
やがて、公爵の視線が、私の上で、ほんの一瞬だけ、和らいだように見えた。
そして、彼は、静かに、しかし議場の隅々まで響き渡る声で、言った。
「静かにしろ」
ただ、それだけだった。
しかし、その一言は、官僚たちが何時間もかけて積み上げた反論の壁を、木っ端微塵に粉砕するほどの威力を持っていた。
誰も、何も言えない。ただ、主君の次の言葉を、息を殺して待っている。
アレスティード公爵は、再び私に視線を戻すと、続けた。
「責任は、全て私が取る」
その言葉は、私ではなく、官僚たちに向けて放たれたものだった。お前たちの保身の心配など、不要だ、と。
「今回の災害で、現行システムの限界は明らかだ。これ以上、議論の余地はない」
そして、彼は、最終決定を、まるで当然の事実を告げるかのように、静かに宣言した。
「レティシアの案を、即時採用する」
その言葉は、絶対的な決定だった。
そして、その声には、私という人間に対する、揺るぎない、絶対的な信頼が込められていた。
議場を後にした時、隣を歩くアレスティード公爵に、私はそっと礼を言った。
「ありがとうございました、閣下」
彼は、前を向いたまま、短く答えた。
「礼を言うな。お前が正しいことをしただけだ」
そのぶっきらぼうな言葉が、どんな甘い言葉よりも、私の心に温かく染み渡っていく。
この人の隣にいる限り、私は、どんな分厚い氷の壁だって、溶かしていける。
私は、彼の半歩後ろを歩きながら、その広い背中を見つめ、静かに、そう確信していた。




