第56話 吟遊詩人は歌う
嵐が去った翌朝、世界は嘘のような静寂に包まれていた。
神殿の重い扉を開けると、目に飛び込んできたのは、どこまでも続く純白の雪景色だった。昨夜の荒れ狂う吹雪が残した爪痕は深く、倒れた屋台の残骸や、折れた木の枝が雪の下から顔を覗かせている。しかし、空は一点の曇りもなく晴れ渡り、朝の光が雪の結晶に反射して、世界中がきらきらと輝いていた。
神殿で一夜を明かした人々は、一人、また一人と、恐る恐る外へと出てくる。そして、誰もが息を呑んだ。
あれほどの猛威を振るった雪嵐だったにもかかわらず、この広場にいた者の中に、一人の死者も、重傷者も出ていなかったのだ。それは、ほとんど奇跡と言ってよかった。
人々は、自然と神殿の入り口に立つ私と、その隣で静かに街を見下ろすアレスティード公爵に視線を向けた。その視線には、もはや以前のような畏怖や警戒の色はない。そこにあるのは、困難を共に乗り越えた者だけが分かち合える、静かで、しかし確かな連帯感と、心からの感謝の色だった。
誰からともなく、一人が深く頭を下げた。それに倣うように、また一人、そしてまた一人と、広場にいた全ての民が、私たちに向かって、静かに、そして深く、頭を垂れた。
その光景を前に、私はただ、胸に込み上げてくる熱いものを、必死にこらえていることしかできなかった。
*
あの嵐の日から、数日が過ぎた。
街は急速に日常を取り戻し、雪かきの済んだ通りには、再び活気が戻っていた。しかし、嵐の前と後とでは、何かが決定的に変わっていた。それは、私を取り巻く空気そのものだった。
侍女のフィーをお供に、復興の様子を見て回るために市場を歩いていると、以前とは比べ物にならないほどの視線を感じる。けれど、それは好奇や値踏みするようなものではない。温かく、親しみに満ちた視線だった。
「おお、公爵夫人様! お体はもうよろしいのですか!」
声をかけてきたのは、あの冬祭で私に最も敵意を剥き出しにしていた、ソーセージ屋の強面の親方だった。彼は、油の染みたエプロンでごしごしと手を拭くと、私の前に深々と頭を下げた。
「あの節は、本当にありがとうございました。あんたがいなけりゃ、俺たち、今頃みんな凍え死んでました」
そして、彼は店の奥から、湯気の立つ一番大きなソーセージを一本持ってくると、有無を言わさず私の手に握らせた。
「これはお代はいりません! 俺の気持ちです! どうか、受け取ってください!」
「まあ、そんな……」
戸惑う私に、周りの店主たちも次々と声をかけてくる。
「奥様、うちの野菜も持っていきな!」
「この干し魚は、スープに入れるといい出汁が出るんだ!」
気づけば、私の腕の中は、領民たちの善意でいっぱいになっていた。
そして、私の後ろからは、いつの間にか集まってきた子供たちが、きゃっきゃとはしゃぎながらついてくる。
「奥様だー!」「レティシア様ー!」
彼らは、もはや私を「ラトクリフ家から来た女」だとか、「恐ろしい公爵の妻」だとか、そんな風には見ていなかった。ただ、親しみと敬愛を込めて、「我らが公爵夫人」として、私を見てくれている。
その事実が、じわり、と私の心の奥底を温めていく。それは、社交界で勝利した時の達成感とも、厨房で新しい料理を完成させた時の満足感とも違う、もっとずっと深く、満ち足りた感覚だった。
*
その日の夕暮れ時、私はフィーと共に、少し遠回りをして屋敷へ戻ることにした。人々の活気で満ちた街の空気を、もう少しだけ感じていたかったからだ。
広場に近い一角にある、一軒の大きな酒場。その扉が開くたびに、中から陽気な音楽と、男たちの朗らかな笑い声が漏れ聞こえてくる。復興作業を終えた職人たちが、一杯やっているのだろう。
その時、酒場の中から、一際大きな歓声と共に、リュートの軽やかな音色が響き渡った。そして、一人の男の、張りのある歌声が、冬の冷たい空気に朗々と流れ始めた。
私は、その歌の最初のフレーズを耳にした瞬間、思わず足を止めてしまった。
『聞け、北の民よ、語り継ごうぞ、あの吹雪の夜の物語を』
それは、吟遊詩人の歌だった。この地では、大きな出来事があると、彼らがそれを歌にして、人々の間に広めていく習慣がある。
『氷の心持つ公爵は、民のため、その尊き汗を流し』
『炎の優しさ持つ夫人は、その知恵で、凍える命を救い給う』
「……え?」
私は、自分の耳を疑った。炎の優しさ? 私が?
詩人は、さらに声を張り上げる。
『薪を運び、水を汲むは、我らが領主、氷の公爵!』
『鍋を振るい、人を導くは、我らが国母、炎の夫人!』
酒場の中から、歌に合わせるように、手拍子と、野太い男たちの合唱が聞こえてくる。
「そうだ!」「その通りだ!」
「奥様、これは……」
隣でフィーが、顔を真っ赤にして、口元を押さえている。私も、顔から火が出そうだった。恥ずかしすぎる。一体、誰がこんな大袈裟な歌を作ったというのか。
歌は、クライマックスへと向かっていた。
『ああ、讃えよ! 氷の公爵と炎の夫人! 二人の絆こそ、我らが北の地の、冬を溶かす太陽なり!』
歌が終わると同時に、酒場は割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
私は、もうその場に一秒たりともいられず、フィーの手を引いて足早にその場を離れた。
屋敷への帰り道、私はずっと俯いていた。顔が熱くて、たまらない。炎の夫人だなんて、冗談じゃない。
けれど、私の胸の奥には、恥ずかしさとは別の感情が、静かに、しかし確かに込み上げてきていた。
あの歌を、誇らしげに、そして何よりも楽しそうに合唱していた、領民たちの笑顔。
あの歌は、ただの英雄譚ではない。あの絶望的な夜を、皆で力を合わせて乗り越えたという、彼ら自身の誇りの歌なのだ。そして、その物語の中心に、私とアレスティード公爵がいることを、彼らは喜んでくれている。
その事実に気づいた時、胸の奥に、これまで感じたことのない種類の、温かい誇りが、じんわりと広がっていくのを感じた。




