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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第55話 氷の公爵、薪を運ぶ

 神殿の中は、人の熱気と焚火の匂い、そしてシチューの香りが混じり合い、一種の戦場の野営地のような様相を呈していた。私は入り口に立ち、次々と運び込まれる負傷者の誘導や、物資の差配に声を張り上げ続けていた。喉はとうに枯れ、凍り付いた服が肌の熱を容赦なく奪っていく。疲労は限界に近かった。

 その、混乱の極みにあった避難所の入り口に、吹雪を切り裂くようにして、黒い影の一団が現れた。

 雪に覆われた軍馬、鋼鉄の鎧、そして先頭に立つ者の、他を圧倒する威圧感。アレスティード公爵が、少数の近衛騎士団を率いて到着したのだ。

 その姿を認めた瞬間、神殿内のざわめきが、水を打ったように静まり返った。誰もが動きを止め、畏怖と緊張の表情で、領地の絶対支配者を見つめている。

 皆、思ったことだろう。彼は、この混乱を収拾するため、あるいは、無様な領民を叱責するために、厳格な命令を下しに来たのだと。私自身も、一瞬、身構えた。彼がこの状況をどう判断するのか、予測がつかなかったからだ。

 アレスティード公爵は、ゆっくりと馬から降りた。その感情の読めない瞳が、吹雪の中からまっすぐに私を捉える。私は、彼の視線を受け止め、ただ黙って頷いた。言葉は、必要なかった。

 次の瞬間、彼は、誰もが予想しなかった行動に出た。



 アレスティード公爵は、まず、その肩にかかっていた、最高級の黒貂の毛皮で縁取られた分厚い外套を脱ぎ捨て、近くにいた騎士に無造作に放り投げた。それは、彼の身分と権威を象徴する衣服だった。それを脱ぎ捨てた彼は、ただの、屈強な一人の男になった。

 そして、彼は、私に一言もかけることなく、神殿の隅へと歩いていった。

 そこには、露天商たちが運び込んだものの、雪解け水で濡れそぼり、誰もが運ぶのを嫌がっていた薪の山があった。彼は、その最も重く、汚れた薪の束を、何のためらいもなく両腕で抱え上げた。鍛え上げられた腕に、筋がくっきりと浮かび上がる。

 彼は、その薪を、黙々と焚火のそばまで運んだ。そして、また戻り、次の薪束を抱える。その繰り返し。

 言葉はない。ただ、最も過酷で、地味で、誰の目にもつかないような労働を、彼は淡々とこなし始めたのだ。

 領民たちは、信じられないものを見る目で、その光景に釘付けになっていた。あの、血も涙もないと恐れられていた「氷の公爵」が。自分たちと同じ場所で、泥と汗にまみれている。

 薪を運び終えると、彼は次に、凍り付き始めた井戸へと向かった。滑車は重く、ロープは凍てつき、屈強な男が数人がかりでようやく水を汲み上げられるような状態だった。彼は、そのロープを掴むと、一人で、力強くそれを引き揚げ始めた。彼の額には汗が光り、吐く息は激しく白い。

 その姿は、もはや領主ではなかった。ただ、この場にいる人々を生かすために、己の肉体を酷使する一人の戦士だった。



 畏怖は、驚きへ。驚きは、やがて、静かな信頼へと変わっていった。

 人々は、再び自分たちの仕事に戻り始めた。だが、その動きは、先ほどまでのパニックに満ちたものではなく、どこか統率の取れた、落ち着いたものに変わっていた。絶対的な指導者が、言葉ではなく、その背中ですべきことを示してくれているからだ。

 私は、炊き出し用の水が残り少ないことに気づき、井戸のそばで汗を拭う公爵に向かって、ごく自然に声をかけていた。

 「閣下、あちらの水樽が空です」

 それは、妻が夫にかける言葉ではなかった。現場の指揮官が、有能な部下へ指示を出す、それと全く同じ響きを持っていた。

 アレスティード公爵は、私の言葉に、ただ黙って頷いた。そして、すぐに空になった水樽を担ぎ上げ、再び井戸へと向かう。

 その完璧な連携を、そこにいた誰もが見ていた。二人が、ただの政略で結ばれただけの夫婦ではないこと。この絶望的な状況の中で、互いを深く信頼し、一つの目的のために戦う、真のパートナーであることを、誰の目にも明らかにした瞬間だった。

 ソーセージ屋の強面の親方が、呆然と呟くのが聞こえた。

 「……なんだってんだ、あの夫婦は……」

 その声には、もはや敵意のかけらも残っていなかった。



 ひとしきり肉体労働を終え、アレスティード公爵が焚火のそばで腕の疲れをほぐしているところへ、私は近づいていった。

 彼の髪は雪で濡れ、頬には煤がつき、高価なシャツは汗で肌に張り付いている。いつも完璧に整えられている彼が、こんなにも無防備で、人間らしい姿をしているのを、私は初めて見た。

 私は、フィーに用意させておいた、湯気の立つブリキのカップを、彼にそっと差し出した。中身は、皆に配っているのと同じ、具沢山の野菜シチューだ。

 彼は、無言でそれを受け取ると、熱さも気にせず、一気に喉へと流し込んだ。貴族らしい上品な仕草は、そこにはない。ただ、渇いた体に水分と熱を補給するための、原始的な行為だった。

 あっという間に空になったカップを、彼は私に返す。

 その時、初めて、彼は口を開いた。

 吹雪の轟音と、人々のざわめき。その全ての音を、一瞬だけ、かき消すように。

 短く、しかし、確かな熱を帯びた声で。

 「温かい」

 その一言が、凍てついた私の心の芯まで、じんわりと溶かしていくようだった。

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