第53話 敵は味方に、レシピは皆のものに
冬祭の朝は、吐く息が真珠のように白く輝くほど冷え込んでいた。しかし、私たちが準備した公爵家の屋台の周りだけは、まるで春のような温かい空気に満ちていた。
大きな寸胴鍋からは、根菜とクリームが煮込まれる甘く優しい香りが湯気と共に立ち上り、隣の石窯では、この日のために特別に焼かれた丸い黒パンが、香ばしい匂いをあたりに振りまいている。
「奥様、すごい行列です!」
フィーが、興奮で頬を上気させながら私に耳打ちした。彼女の言う通り、祭りの開始を告げる鐘が鳴るやいなや、私たちの屋台の前にはあっという間に長蛇の列ができていた。領民たちは、好奇と期待に満ちた目で、鍋の中を覗き込んでいる。
「さあ、どうぞ。熱いのでお気をつけて」
私は笑顔で、くり抜いた黒パンの器に、なみなみと注いだ熱々のクリーム煮込みを最初のお客である小さな男の子に手渡した。男の子は母親に促され、木の匙で一口すすると、その目を大きく、きらきらと輝かせた。
「おいしい!」
その一言が、合図だった。行列はさらに長くなり、私たちの屋台は嬉しい悲鳴を上げるほどの盛況ぶりとなった。温かいパンの器を両手で抱え、ふうふうと息を吹きかけながらシチューをすする人々の顔は、誰もが幸せそうに綻んでいる。
しかし、その光景を、苦々しい表情で見つめる視線があることにも、私は気づいていた。
私たちの屋台の向かい側で、自慢の焼きソーセージや揚げ魚を売る露天商たちだ。彼らの前は、閑古鳥が鳴いていた。その視線には、嫉妬と、そして市参事会で私に煮え湯を飲まされたバルドー参事への義理立てからくる、あからさまな敵意が宿っていた。
*
案の定、彼らの妨害は昼前にはっきりと始まった。
まず、向かいのソーセージ屋が、店の前に大きな看板を叩きつけるように設置した。『本日限り! 大幅値下げ!』。普段の半額近い値段に、私の列に並んでいた何人かが、迷うようにそちらへ視線を送る。
それに呼応するように、隣の揚げ魚屋の親父が、わざとこちらに聞こえるような大声で叫び始めた。
「へっ、貴族様の気まぐれな慈善料理なんかに騙されるんじゃねえぞ! こちとら、何十年もこの祭りで腕を振るってきたんだ! 本物の祭りの味はこっちだ!」
その野次は、一人、また一人と伝染していく。
「そうだそうだ! あんなお上品なものが、俺たちの腹を満たせるかよ!」
「どうせ、すぐに飽きて来年にはもういねえさ!」
下品な罵声と、あからさまな値下げ合戦。祭りの楽しい雰囲気は、彼らの一角だけが、まるで戦場のように険悪な空気に変わっていた。
「なんてことでしょう、奥様……!」
フィーが悔しそうに唇を噛む。
私の心にも、もちろん怒りがなかったわけではない。けれどそれ以上に、悲しかった。せっかくの楽しいお祭りが、こんなつまらない意地の張り合いで台無しにされていくことが。このままでは、領民たちも心から楽しめないだろう。
私は、一度だけぐっと拳を握りしめ、そして、決意を固めた。
「フィー。少しだけ、お店をお願いできますか?」
「え? 奥様、どちらへ?」
戸惑うフィーに、私はにっこりと微笑んでみせた。
「ほんの少し、ご挨拶に」
私はエプロンを外し、たった一人で、敵陣の真っただ中である露天商たちの元へと、まっすぐに歩いていった。
*
私の姿に気づいた露天商たちの野次が、ぴたりと止んだ。彼らは、私が文句を言いに来たとでも思ったのだろう。その顔には、警戒と嘲りが浮かんでいる。特に、一番強硬に反対していたソーセージ屋の強面の親方が、腕を組んで仁王立ちになり、私を睨みつけていた。
私は、彼らの目の前で、足を止めた。
そして、その場で、深々と頭を下げた。
「……なっ!?」
予想外の行動に、彼らが息を呑むのが分かった。
私はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに彼らの目を見て言った。
「皆様のお知恵を、ぜひお貸しくださいませんか」
「……はあ?」
強面の親方が、眉間に深い皺を刻んで、間の抜けた声を出す。
私は構わず続けた。
「私のこのクリーム煮込みは、野菜と乳製品だけで作っております。正直に申しますと、これだけでは少し、物足りないのです。皆様が長年かけて作り上げてこられた、その素晴らしい焼きソーセージの塩気と肉汁、あるいは、その揚げ魚の香ばしい衣と旨味。それらが加われば、私の料理は、もっと、ずっと美味しくなるに違いありません」
私は、フィーに合図して持ってこさせた、小さなカップに入ったクリームソースを、親方の前に差し出した。
「どうか、味見をしていただけませんか。そして、もしお気に召しましたら、このソースのレシピを、皆様に差し上げます。これを使って、新しい商品を一緒に作っていただけないでしょうか」
私の提案に、露天商たちは完全に沈黙した。レシピを、無償で、ライバルである自分たちに渡す? 彼らの常識では、到底考えられないことだったのだろう。
強面の親方は、私の顔とソースのカップを交互に見た後、疑わしげに、しかし断りきれずに、そのカップを受け取った。そして、自分の焼いたソーセージの端を、ちぎってソースに浸し、無言で口に運んだ。
彼の咀嚼する音が、やけに大きく響く。
誰もが固唾を飲んで、彼の次の言葉を待っていた。
長い、長い沈黙の後。
彼は、ごくりとソーセージを飲み込み、そして、ぶっきらぼうに、だがはっきりとした声で、呟いた。
「……うめえじゃねえか」
その一言で、張り詰めていた氷が、音を立てて砕け散った。
*
「親方、本当ですかい!?」
「俺にも一口、味見させてくれ!」
それまでの敵意はどこへやら、露天商たちは我先にとソースの周りに集まり、自分たちの自慢の商品との相性を試し始めた。
「俺の揚げ鳥にも合うぞ!」
「このソースをかければ、うちの焼き芋がご馳走になる!」
彼らの顔は、もはや商人ではなく、新しい味を発見した料理人のそれに変わっていた。
その日の午後には、冬祭の会場の風景は一変していた。
あちこちの屋台に、『公爵夫人直伝ソースがけ!』という、急ごしらえの看板が掲げられたのだ。ソーセージ屋は「クリーム煮込みソーセージ」を、揚げ魚屋は「白身魚のクリームフリット」を、新しい目玉商品として売り出し、どの店も、私の屋台に負けないほどの活気を取り戻していた。
領民たちは、様々な屋台を巡り、自分だけの最高の組み合わせを見つけるのを楽しんでいる。会場全体が、競争の険悪な空気ではなく、協力と発見の喜びに満ちた、温かい一体感に包まれていた。
私は、その光景を、自分の屋台の隅から、静かに眺めていた。
敵を打ち負かすのではなく、敵をなくしてしまうこと。
私のやり方は、もしかしたら甘いのかもしれない。けれど、この温かい湯気と、人々の幸せそうな笑顔こそが、私が本当に守りたかったものなのだ。
空から舞い始めた粉雪が、祭りの灯りに照らされて、きらきらと輝いていた。




