第52話 冬祭への宣戦布告
北境の兵舎から戻った直後、私の「即席シチューの素」は、アレスティード公爵の鶴の一声で正式に採用されることが決まった。
マルクス大尉は、あの日の練兵場での出来事がよほど堪えたのか、今では私の前に来ると借りてきた猫のようにおとなしくなり、兵站改革の実行部隊として忠実に働いている。彼の態度の変化など些細なことだ。重要なのは、極寒の地で領地を守る兵士たちが、これからはいつでも温かい食事を摂れるようになったという事実だった。
「よくやった」
公爵執務室での報告の終わり、アレスティード公爵はただそれだけを口にした。彼の言葉はいつも短い。けれど、その一言には、紛れもない労いと、そして私が勝ち取った成果への確かな評価が込められていた。氷の仮面の下にある、彼の静かな信頼を感じるだけで、私の心は温かいもので満たされていく。
兵士たちの問題は、ひとまず解決への道筋が見えた。けれど、私の目はすでに次の場所へと向いていた。
この領地に住む、兵士ではない、普通の人々へ。
厳しい冬の寒さは、兵士だけでなく、この地に生きる全ての人々に平等に襲いかかる。特に、体の弱い老人や、満足に食べられない貧しい子供たちにとっては、冬を越すこと自体が戦いだ。
彼らの凍える心と体を、私の料理で温めることはできないだろうか。
私の脳裏に浮かんだのは、毎年、冬の訪れを告げるために領都の中央広場で開かれる「冬祭」。領民が一堂に会するこの祭りは、私の改革を、私の想いを、人々に直接届けるための、またとない舞台になるはずだ。
私は決意を固め、執事長のブランドンに市参事会への面会の取り付けを依頼した。私の次の戦場は、もう決まっていた。
*
領都の市参事会が開かれる議場は、公爵の執務室とはまた違う、冷ややかで厳粛な空気に満ちていた。磨き上げられた石の床は、私の足音を冷たく反射する。円卓を囲むように座る十数人の参事会員たち。そのほとんどが、年配の男性だった。彼らの視線は、好奇と、警戒と、そして私のような若輩の女性当主に対する侮りが、隠しようもなく混じり合っていた。
「公爵夫人が、我々市参事会に、一体どのようなご用件で?」
議長役の白髭の老人が、事務的な口調で問いかける。
私は背筋を伸ばし、集まった全員の顔をゆっくりと見渡してから、はっきりと告げた。
「皆様。本日は、来たる冬祭について、一つご提案があり参りました」
議場がわずかにざわめく。私は構わず続けた。
「今年の冬祭に、アレスティード公爵家として、慈善を目的とした一つの屋台を出店させていただきたいのです」
私の言葉に、参事会員たちは顔を見合わせる。貴族が祭りで慈善を行うこと自体は、前例がないわけではない。だが、私の提案はそこで終わらなかった。
「提供する料理は、すでに考案済みです。この地で豊富に採れる根菜をたっぷり使い、栄養価の高いクリームで煮込んだ温かいシチュー。それを、中をくり抜いた熱々の黒パンを器にして、安価で提供いたします。子供でもお年寄りでも、誰もが手軽に、体の芯から温まることができる一品ですわ」
その情景を思い浮かべたのか、何人かの参事会員がごくりと喉を鳴らした。しかし、その穏やかな空気を切り裂くように、鋭い声が響いた。
「馬鹿馬鹿しい!」
声の主は、バルドー参事。恰幅のいい体躯に、血色の良い顔。彼は領都の露天商ギルドと強い繋がりを持つことで知られ、保守派の筆頭として、新しい変化を何よりも嫌う男だった。
「公爵夫人が、我々、民間のささやかな商いを脅かすおつもりか! 祭りの屋台は、我々商人が年に一度、必死で稼ぐための大切な場所。そこに公爵家が乗り込んできて、安価な料理をばら撒かれては、我々は商売上がったりだ! これは、貴族による民業圧迫に他ならない!」
バルドー参事の言葉に同調するように、他の数人の参事会員も頷き、私への非難の視線を強める。彼らにとって、私の行動は貴族の気まぐれな慈善活動であり、自分たちの利権を脅かす敵意の表明にしか見えていないのだ。
議場は、完全に敵意に満ちた空気で満たされた。私は、その冷たい視線の集中砲火を、ただ一人で受け止めていた。
*
バルドー参事は、勝ち誇ったように大きく息を吸い込み、さらに私を追い詰めようと口を開きかけた。その瞬間、私は彼よりも先に、静かに、しかし凛とした声で言葉を発した。
「バルドー参事。あなたの仰ることは、少し違いますわ」
私の穏やかな声に、議場の空気が一瞬、静止する。
「これは競争ではありません。協力です」
私は、にこやかな笑みさえ浮かべて、続けた。
「私の屋台は、あくまで慈善が目的。利益を追求するものではありません。むしろ、私の温かいシチューが呼び水となり、祭りに訪れる人々はさらに増えるでしょう。人々が集まれば、他の屋台の売り上げも、自ずと上がるのではありませんか?」
「詭弁だ!」とバルドー参事が叫ぶ。
「では、こういたしましょう」
私は、ここで最後の切り札を切った。
「この屋台で得られた売上は、一銭たりとも公爵家のものにはいたしません。その全てを、領都のあの、古く、隙間風の吹く孤児院へ寄付いたします。子供たちが、凍える冬を少しでも温かく過ごせるように、老朽化した暖房設備を修繕するための費用として」
その言葉は、決定的な一撃だった。
議場は、水を打ったように静まり返った。
孤児院の惨状は、ここにいる誰もが知っている事実だ。見て見ぬふりをしてきただけで。その子供たちを助けるための慈善事業に、真っ向から「商売の邪魔だ」と反対することなど、誰にもできはしない。そんなことをすれば、守銭奴の悪名を着せられ、領民からの信用を全て失うことになるだろう。
バルドー参事は、顔を真っ赤にしたまま、口をパクパクさせている。だが、反論の言葉は出てこない。他の反対派だった参事会員たちも、気まずそうに視線を逸らした。
大義名分は、完全に、私にあった。
やがて、議長が重々しく咳払いを一つした。
「……公爵夫人の、その尊いお志、確かに承った。異論のある者は、おるかな?」
誰も、手を挙げなかった。
「よろしい。では、公爵家による冬祭への慈善屋台出店、これを市参事会として、正式に承認する」
その宣言は、まるで遠くで鳴った鐘の音のように、私の耳に響いた。
私は、静かに立ち上がり、参事会員たちに向かって淑女の礼を一つした。
「皆様のご理解に、心より感謝申し上げます。きっと、この街の誰もが温まれる、最高の冬祭にしてみせますわ」
議場を後にする私の背中に、複雑な感情の入り混じった視線が突き刺さるのを感じていた。
戦いには勝った。けれど、これで終わりではない。むしろ、始まりなのだ。
利権を脅かされた者たちが、このまま黙って引き下がるはずがない。祭りの当日、彼らはきっと、何らかの形で私を妨害してくるだろう。
それでいい。どんな困難が待ち受けていようと、私はもう怯まない。
私の手の中には、温かいシチューのレシピと、守るべき人々の笑顔があるのだから。




